きみが頷くだけでよかった  [ 29/39 ]



 なまえが多軌の腕をするりと抜け出す。周りをぐるりと見渡して、戸惑うように瞳を伏せた。にゃんこ先生がそんななまえを励ますかのように鼻を鳴らす。

「私を、皆さんは、……嫌わないでいてくれますか?」
「もちろんよ」
「ああ。安心してくれて良い」

 なまえは微笑むと、鋭い視線で頭上を睨みつけた。
 すると、姿を消していた蝶が現れて、極彩色がなまえの身体を包み込んだ。思わず動きそうになるが、にゃんこ先生に制される。

「見ておけ。これが<蝶の娘>の最期だ」

 蝶が、蟲が。ひらひらと舞って、なまえを守るように、俺たちを威嚇する。蝶の気配が俺たちを拒む。それでも眼を逸らしてはいけないのだと、先生が教えてくれたから俺は前を向く。
 なまえは愛しそうにそれらを眺めると、涙を一粒零して、自分の首に手をやった。じわじわと、インクが染み出すようになまえの首から鎖のような、首輪のような痣が浮き出てくる。それとなぞりながら、なまえが口を開いた。

「今まで守ってくれて、ありがとう。――もう良いよ、」

 一瞬だった。蝶が、粉々に砕け散った。ふわりと花の香りが鼻腔をくすぐる。気配が微笑んだ。
 そのままその場に倒れこんだなまえを見て駆け寄る俺たちを、もう先生は止めたりしなかった。

「なまえちゃん!」
「なまえ、大丈夫か!?」
「寝てるだけ、みたい……良かった……!」
「でも、どうしていきなり、」
「なまえが決めたからだ。夏目と、多軌と共に人間として生きることをな」

 そうして先生は語り始めた。
 もともと、<蝶の娘>は人間だった。妖と恋に落ちた娘は、妖が人間に殺されたときに呪いをかけられる。それは娘を守るためのもの。人間から姿を隠し、妖もそう易々と手を出せないようにする呪いだった。娘は人間で、弱く、妖との子どもを身篭っていた。妖としても苦肉の策だったらしい。その呪いは母から子へと受け継がれ、子からまた子へと受け継がれる。娘と恋に落ちる妖が呪いをかけなおしていくこともあり、年々その呪いは強くなっていく。強い呪いは決められた手順でしか解けない。

「時期も決められていてな。<蝶の娘>が十五を迎える夜にだけその呪いは解ける」
「それが今日だったってこと?」
「そうだ。まあ、解くだけなら簡単なのだ。なまえがそれを承認するだけで良い」
「でも、それと同時になまえは妖の力を失うんだな」

 なまえが倒れてすぐに、彼女を纏っていた雰囲気が変わった。妖特有の感覚はない。今は多軌と同じただの女の子になっていた。蜂蜜色の髪の毛も、段々と落ち着いた茶色になってきている。きっと瞳の色も変わってしまうのだろう。

「それも正解だ。だから、苦肉の策なのだ。それ相応の代償がなければ呪いは解けないからな。それと、これから一週間はなまえは眼を覚まさん。覚悟しておくことだな」
「えっ、なんで?」
「一気に力が抜ければ命に関わる。一週間かけて魂に刻みついた妖力を逃がしていく」
「ああ、なるほど……。でも、これから夏目くんはどうするの?」
「どうするって、何が」
「なまえちゃんのこと。私たちを信じてくれたのは良いけど、<蝶の娘>じゃないってことは、姿を消すこともできなくなったんだよ。その、家の人たちになんて説明するのかなって」
「あ」

 由々しき事態だ。なまえがこれからも側に居てくれることだけを考えていたが、大きな問題があったのだ。それに、藤原夫妻が彼女を受け入れてくれたとしても、戸籍の問題がある。暮らす家もない。……山積み、である。

 そんな俺をブサにゃんこに戻った先生が体当たりで叱ってきた。

「馬鹿もん! それをどうにかするのがお前だろうが!」
「……だよな」
「だ、大丈夫! 私も出来る限りサポートするから! ね?」
「ありがとう多軌……」

 隣で眠るなまえの寝顔を見て、それでも俺は後悔したくないと思った。
 俺のエゴで、ごめんなさい。それから、ありがとうを。

 ただ今は、彼女の手を握っていたかった。



  
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