さがしものはなんですか  [ 28/39 ]



 学校が終わったあと、俺は多軌と、にゃんこ先生と共になまえが暮らしていたという山に来ていた。俺の家からこの山は遠く、にゃんこ先生の背中に乗っても二十分といったところか。

 鬱蒼と生い茂る木々と、寒々しい空気。来るものを拒むこの空気は、あの夜対峙した<蝶>とよく似ていた。

「夏目、ここから先は妖が多い。お前は狙われるだろうから、私の言うことをよく聞け。そこの小娘もだ」
「ああ。分かってる」
「う、うん!」
「私から一歩も離れるな。出来ることなら眼を開けるな、私が良いというまでだ」

 俺たちは頷いて、歩き出した。多軌を連れてきたのは間違いだったかもしれない、と今更ながらに俺は後悔する。頭に血が上っていたのもあったが、浅慮だった。今は夜十時。今日はもう寝ます、と言って家を出てきた。多軌も同じようなものだろう。女の子をこんな夜中に連れ出すなんて、普通ならばあってはならないことだ。多軌はなまえの一番の理解者だろうから、という理由だけで俺は……。

「夏目くん。……朝、ごめんなさい」
「え?」
「結構キツいこと言ったから。夏目くんがなまえちゃんに優しかったのは知ってるの。だって、なまえちゃん、すごく夏目くんに懐いてたみたいだから……でも、不安だった」
「不安って、多軌が?」
「なまえちゃんって、お試しで山を降りたわけでしょ? それで、帰るって決めた。私はそれを聞いて、夏目くんと同じように思った。友達を失いたくはないし、できることなら一緒にいたいし、でも……」
「大丈夫だよ。俺がどうにかする」

 眼を閉じているため、多軌の顔は見えない。感じるのは山の匂いと先生の柔らかな毛だけだ。
 なまえの意思を尊重したいと思う多軌は悪くない。それでも俺はこの我侭を通すことに決めたのだ。ならば、後悔はさせない。なまえを大切だと言ってくれる多軌がいるんだ。にゃんこ先生が鼻を鳴らすのが聞こえた気がした。

「眼を開けろ。ここがなまえが暮らしている場所だ」

 言われるままに、俺は眼を開く。崖の下にある岩肌が剥き出しの洞穴。そこには何もない。草も、花も、動物の気配すらも。ただ、闇が大きな口を開けているだけだ。  多軌がひ、と声をあげた。にゃんこ先生がそれを一瞥して、中へと進んでいく。迷いのない足取りだった。俺は多軌を見て微笑むと、先生に続いた。

 中もまた、暗闇だった。ここになまえが暮らしているのかと思うと、何だか曖昧な気持ちになる。
 歩いているうちに、光が見えてきた。無数の青と、赤と、黄色と、緑と、……この光景には見覚えがある。噎せ返るような色の洪水に思わず瞬きする。光は、蝶だった。
 なまえが近い。そう思った俺は、走り出していた。

「なまえ!」

 奥に行くにつれて蝶が増えていく。その全ての蝶が羽ばたいて、俺の視界を埋め尽くす。ようやく視界が開けたとき、俺の眼に飛び込んできたのは暖かなオレンジ色の炎の前でしゃがみこむなまえの姿だった。
 なまえは俺に気づいて、顔をあげる。その眼には驚愕が浮かんでいた。

「夏目さま。どうしてこんな所にいるのですか」
「なまえが勝手にいなくなったからだ」
「……挨拶を忘れていましたね。人と関わるのは初めてでしたので、礼儀も知らずごめんなさい。今までお世話になりました。これからは元の生活に戻ります」

 殴るなんて、と思っていたはずだった。なまえの淡々とした言葉に泣きそうになる。まるで練習していたかのようなその口ぶりは、俺を拒絶するものだった。俺は彼女の手をとって無理矢理立たせる。酷い行為だとは知っている。

「それだけの関係だっていうのか。俺となまえは、そんな言葉で終わらせられるのか? ……俺は嫌だよ。もう嫌なんだ。裏切られるのは怖い」
「夏目さま? なにをいって……」
「なまえは俺のことが嫌いなのか?」
「……もちろんです」

 なまえが俺から眼を逸らした。息を大きく吸い込んで、吐き出す。

「人間なんて大嫌いです。だから私は何も言わずにここに帰ってきたのです。やっぱり、お母さまもお父さまも、ご先祖様も何一つ間違ってはいなかった。<蝶の娘>は人間と関わるべきではありません」

 最後のほうはほとんど叫んでいた。強がっているのはすぐに分かる。なまえの眼には涙が滲んでいた。どうして俺は、上手く説明できないのだろう。なまえが悩んでいるのを理解したかった。人間は悪いばかりではないと教えたかった。こんなことを言いたいんじゃない。焦りが出てくる。分かって欲しい。分かって欲しいんだ。

 多軌が動いたのを感じた。なまえを真っ直ぐ見据えて、首を振る。多軌はもう泣いていた。

「じゃあ泣かないで! 私たちを本当に嫌いなんだったら、<蝶>でも何でも使って私たちを黙らせてよ。なまえちゃん、お願い、嘘なんかつかないで。私に力なんてないけど、それでも、なまえちゃんと一緒にいたいって思ってる人が、こんなに、……」
「多軌さま……どうして、そんなに、泣いて……。私は気持ち悪くて、人間じゃなくて、」
「なまえ」

 にゃんこ先生の低い声がなまえを呼んだ。びくり、と反応したなまえの瞳から、大粒の涙が零れだした。多軌がなまえを抱きしめる。

「う、あ、……多軌さま、ごめんなさっ……! 私、わ、」
「夏目くんも、私も、にゃんこちゃんも、皆なまえちゃんが大好きだから。そんな寂しいこといわないで……!」
「人間が、怖かったんです。私たちを殺すから、怖い、でも、……違ったから、もっと怖くなったんです、嫌われたく、ない……」
「俺だって君に嫌われたくない。なまえを失うのは、塔子さんと茂さんを失うのと同じくらい嫌なんだ」

 初めて俺を受け入れてくれた人たちも、なまえも、多軌も、田沼も、俺はもう失えない。なまえが感じている恐怖は俺のと一緒なのだ。一度愛してしまえば、戻ることなどできない。多軌の腕の中で、なまえがそっと微笑んだ。
 相変わらず泣いていたが、それだけは本当だと信じられる笑顔だった。
(君が泣かない世界が欲しい)



  
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