少年の咆哮  [ 25/39 ]



 眼を覚ますと、隣になまえはいなかった。
 一瞬呆然として、すぐに部屋の中を確認する。どこにもいない。俺が宿題を終わらせようとしているときには確かに隣に彼女はいたというのに、今は気配すらも感じられない。彼女の存在はいつだって希薄で、妖と人間が同じように見えてしまう俺にだって見つけにくいものだった。けれど呼べばいつでも返事をしてくれたし、ずっと側にいたのに。

「なまえ……?」

 暗闇に俺の声だけが響く。部屋の窓は開け放たれ、冷気が中へと入り込む。
 月明かりに照らされて、銀色の毛が光った。長い長い、にゃんこ先生の毛。これは、どういうことだ? 二人が勝手に出て行った?
 俺はいてもたってもいられなくなり、寝ているひとを邪魔しないように静かに外へと急いだ。

「おい、にゃんこ先生! なまえ! どこだ? こんな夜中に出て行くなんて危ないだろう……っ」

 呼びかけても返事はない。
 俺に何で何も言わずに出て行ったのだろう。しかもこんな暗い中じゃあ、いくらにゃんこ先生がついているとはいえ危険すぎる。彼女は俺とは違って、世間知らずの上に幼い。しかもあんな少女がふらついていたら、補導されるかもしれない。いざとなれば身を隠すことも二人なら出来る。けれど、俺はそれとは違った妙な胸騒ぎを覚えていた。
 どうすることもできず、玄関から少し行ったところで立ち尽くしていると山のほうから見慣れた獣が見えた。銀色の美しい毛をまとったそいつは、俺の方を見て眼を大きく開いた。

「おかえり」
「まだ寝ていなかったのか? 先程までは眼を閉じていたように思ったが」
「それより、何考えてるんだ馬鹿にゃんこ! なまえを連れて外に行くなんて危なすぎ……おい、にゃんこ先生」
「何だ」
「なまえは、どこだ?」

 恐らくにゃんこ先生の背中に乗っているのだろう、と彼に近づくとなまえの姿はなかった。にゃんこ先生を見つけたときの安堵感はなくなり、ばくばくと心臓が動く。まさか、と思いながら問う前に、にゃんこ先生が苦笑した。

「――――! どういう、ことだ」
「見ての通りだ。なまえはいない」
「意味が分からない! どうしてそうなったんだよ!」
「あいつがそう望んだ」
「何を!」
「夏目から離れることだ」

 瞬間、心臓の動きが止まった。どんどん身体が冷たくなっていく。ぞわぞわと分からない悪寒が這い上がり、俺の喉を締め付けた。搾り出すようにどうして、と問うとにゃんこ先生は答えなかった。
 けれど再度俺を見、大きな溜息をついたかと思うとその大きな身体で俺を包み込んだ。何で、こんなこと。

「なまえはもうここには来ない。きっと、一生な。これがあいつにとって最良の選択だったんだ。私が夏目に会えばあの子が変わるのではないかと勝手に目論んだことだ。だから、お前ももうなまえは忘れろ」
「忘れろ? 何でそんな変なことを言うんだよにゃんこ先生! 会いたければ会いに行けば良い。なまえが元の場所へ戻りたいのなら引き止めることはしないよ。でも、何も言わずに出て行くのが」
「忘れろ」
「にゃんこ先生!」
「なまえはな、お前のためを思ってこうしたんだ。<蝶の娘>は狭間の者だが、人と関わることは稀だ。あいつ自身がそう思っていなくとも先祖は人間を憎んでいる。それに従うあいつを咎めることはできない」

 ぐずる子供をあやすようににゃんこ先生が言葉を紡ぐ。妙に悟ったような声色に、なまえは本気なのだと知る。なまえが人間を恨む理由はある。そしてそれを俺が止める権利なんてあるわけがないことくらい、重々承知していた。
 元々なまえはにゃんこ先生の思いつきで外に出てきただけだ。それがなければ彼女は、山奥で静かに暮らしていただろう。イレギュラーは俺だ。だから<蝶>たちは俺に忠告した。あの子を拒絶するなら早くしなさい、と。なまえも分かっていたんだ。だけど俺はそうしたくなかった。始めは同情だったのに、今ではもう――。

 こんなに、泣きそうなくらいなまえが好きなのに。
 会えなくなることを考えないくらいになまえは俺の心を占めているのに。

「あいつも、お前のことを大切に想っていた。好いていた、といっても良いな。なまえは隠してほしかったようだが……けれど時の流れに身を任せればそれもいつかは忘れてしまうさ。それまで時間はかかるだろうが、」
「……何、だよ」
「っ、夏目?」
「何だよ、それ。……俺のことを大切に? だったら何でそうなるんだよ。俺はなまえにいてほしかったんだ。それなのに何の説明もせずに帰るなんておかしいだろ」
「なまえにも苦渋の決断だったんだ。分かってやってくれ。これからも私があの子を守るから」
「俺はそんなこと望んでない!」

 気づけば俺は叫んでいた。にゃんこ先生の瞳を思い切り睨みつけて、これ以上ないくらい声を張り上げて、叫んでいた。
 ふざけるな。馬鹿にするな。俺のことを想っていた? そんなもん知るか。今なまえがここにいないんだったらそんなことに意味はない。というか、そんな大事なこと――。

「自分で言えこの馬鹿野郎ッッ――――!」

 俺はにゃんこ先生を、思い切り殴った。



  
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