まもるもの  [ 23/39 ]



 多軌に<蝶の娘>の話を聞いてから、三日が経った。なまえは以前と変わらずに見るもの全てに驚いていた。何を見せてもすごいすごい、と喜ぶ無邪気さに胸が痛くなるくらいに。にゃんこ先生はもう何も言わなかった。

 そして、夜が訪れた。

「なまえ? ……もう寝たのか」

 今日は中々寝つきが良いな。俺は終わらない宿題と闘いながら、なまえの寝顔をそっと盗み見る。
 すやすやと眠るその頭をゆるりと撫でる。色素の薄い髪の毛が指を通り抜けていく感触が心地良い。もう、なまえがここにいることにもすっかり慣れてしまった。最初は半妖という言葉にびっくりしたが、彼女と過ごしていくうちにそれもなくなっていった。

 可愛いな。
 ぽつん、と呟きが外に出た。途端、顔がやけに熱くなる。
 ……いやいやいや。いきなり何言ってるんだ俺。自重しろ。こんなの聞かれたら、絶対不思議そうな顔される。なまえの顔を覗き込むが、起きる気配はない。ほう、と息をついてシャーペンを机に置いた。

「あー……」

 しかし、特にすることもない。やはり勉強に集中したほうが良さそうだ。机にもう一度向き直ろうとすると、なまえが微かに身じろぎした。

「? ごめ、起こしちゃったか?」
『――――少し、静かにして下さいな』
「!?」
『失礼致します』

 なまえよりも少し低い声で、それは喋った。なまえがむくりと起き上がり、俺をじっと見つめる。俺はその瞳に見覚えがあった。あれは確か、ついこの前のことだ。なまえを取り巻く無数の蝶。それと同じ空気を纏った瞳が俺を捕らえる。
 そっと、白い指が俺の額に添えられた。生きている人間ではあり得ない冷たさにひゅうと咽から空気が漏れる。

『あなたは夏目、と申されるのですね。わたくしたちが何だかお分かりに?』
「きみ……は、<蝶>なのか?」
『その通りです。わたくしたちは、個ではない。この子の中に流れる血、過去、そしてその力そのもの。この子をまもるものです』
「まもる?」
『そうです。この子が十五の誕生日を迎えるまで、わたくしたちがこの子をまもってあげる。それが、始まりからの願い』
「つまり、きみはなまえの祖先ってことか? 誕生日って何のことだ?」
『その全てに答えることはできません。けれど、わたくしたちは感じている。あなたは確実に、この子を揺るがしている。今まで無かった迷いが生まれてきている』

 俺は、答えることができなかった。<蝶>はふふ、と微笑すると俺から手を離した。その瞬間になまえの身体が力を失った。慌てて近づくと、なまえからぶわっ、と何かが出てきた。
 それは<蝶>だった。部屋の中を、無数の<蝶>が占拠する。どれ一つとして同じ色は無い。その中でも一際輝く紫色の蝶が、俺の眼の先で浮遊していた。

「…………」
『わたくしたちは、狭間の者だった。人間の血は流れているけれど、決してそれらとは相容れないものだった。夏目はわたくしたちを何と呼ぶ? わたくしたちを、この子を拒否するのですか? なら、できるだけ早くこの子を嫌いになってあげて。それが夏目ができる最善の選択』

 空気を震わせずに脳内に直接語りかけてくるような声に、身震いがした。にゃんこ先生なんかより、もっとずっと大きなものを感じる。きっとこれがこの一族が積み重ねてきたものなのだろう。じわじわと内側から侵食されるような感覚に吐きそうになる。
 けれど、これだけは言わなきゃいけない。

「俺は、なまえを気持ち悪いなんて思ったことはないよ」
『それでも、いつかは気味悪がる』
「そんなことはない」
『同情に過ぎない。いつだって人間はそうしてきたのです。この子はわたくしたちのせいで弱く育ちすぎた』
「これが、同情だったら良かったよ」

 俺はきっと、気づいていたんだと思う。きっかけはきっと些細なことで、俺自身意識もしなかったけれど。いつの間にかそうなってしまっていた。
 にゃんこ先生の知り合いだと紹介されて、なまえと共に暮らして、俺が帰ったらいつだって笑顔でおかえりなさいと言ってくれた。それがとても嬉しかった。
 それでも俺がなまえを見つめる視線は、いつでも、柔らかかったんだ。彼女の無邪気な笑顔に癒された。俺と重ねていたことも認めるけれど、同情が一欠けらもないなんて偽善はいわない。
 俺は、なまえに恋をしているんだ。

『夏目、あなたは分かっていません。わたくしたちはすでに人とは相容れないものになっている。この子の姿を人間が感知できないのが何よりの証拠です。この子もわたくしたちと同じように妖と子を成し、繋がっていくのが最善だと……』
「それはどうかな。なあ、君たちはなまえをまもっているといったね。でもそれは縛っているだけじゃないのか」

 畏怖はある。けれど、俺だってなまえをまもりたいんだ。タイミングを逃してしまったら気持ちを二度と伝えられないことがあると、俺はきっと誰よりも知っているから。<蝶>の気配が動いた。なまえの左目から無数の色が飛び出す。それらは俺に纏わりついて、その度にさまざまな色が俺の流れ込んできた。
 ――それは、記憶だった。歴代の<蝶の娘>たちの記憶の色が、俺を塗りつぶしていく。悲しいことがあった。人間に嫌われた。嬉しいことがあった。ある妖が優しくしてくれた。悲しいことがあった。妖払いは愛するあの妖を! 嬉しいことがあった。母を失った私に妖が優しくしてくれた。悲しいことが。ああ、繰り返される。長く続いた色は、決して白になることはない。

「……そんなこと、だけじゃない。きっと、なまえは白に戻れる」

 思い出せ、思い出せ、思い出すんだ!
 なまえは初め、どんな顔をしていた? 初めて人間と話して、楽しいと笑った彼女は嘘じゃない。たくさんの初めてに戸惑っていたけれど、確かになまえはあの笑顔を浮かべていた。俺はそんななまえに惹かれた。俺は、それを信じるだけだ。

「君たちはもう人間を信じることができないかもしれない。でも、お願いだ。人間じゃなくて、俺を。夏目貴志という一人をどうか信じてくれ。俺はなまえを必ず幸せにしてみせるよ。<蝶の娘>という括りじゃない、ただのなまえが好きなんだ」

 そう叫んだ瞬間、時が止まったような気がした。
 俺の視界を塞いでいた蝶たちがいなくなる。ぼやけていた視界がはっきりとしたものになっていき、もう一度眼を開いたときに、部屋にいたのは俺となまえの二人だけだった。
 何事もなかったかのように寝息をたてている彼女に、俺は胸をなでおろした。きちんと毛布をかけてやり、俺はなまえの額に口づけをする。そうしたことで、胸の高鳴りが戻ってきた。
 もう戻れない。
 どこかで別の俺が、それでも良いんだと笑った。



  
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