さみしくはないのです  [ 19/39 ]



 誰かに名前を呼ばれた気がした。
 先生の低い声じゃなくて、高くて透き通った声が俺の名前を柔らかく紡ぐ。ゆっくりと瞳を開けると、そこには見知らぬ少女がいた。
 ――妖か、昼夜関係なく俺に迷惑をかけていく存在だと重い身構えると、少女は儚く微笑んだ。

「おはようございます、夏目さま。もう朝ですよ、と下から聞こえていますが」
「……なまえ」
「はい。もうお忘れですか? それはちょっと寂しいかもしれません」
「いや、憶えてるよ。ごめん」

 思い出した。
 蜂蜜色の髪の毛に、薄紫色の瞳に映るのは無邪気な光。この子は、昨日家に来たばかりのなまえだ。彼女は自らを「狭間の者」と名乗った。
 一見普通に見えるなまえは妖と人間の混血、らしい。

「うわ、もうこんな時間……やばいな、遅刻しそうだ」

 目覚まし時計を手にとって時刻を確認し、俺はそう呟いた。今から急げば間に合うが、朝から走るのはなんとなく癪だ、と思う。単に面倒くさいだけだけど。
 そういえばにゃんこ先生はどこに行ったのだろう。部屋を見渡してもどこにもいない。俺の傍にいないと用心棒なんてできてないじゃないか、といつも言いたくなる。もう慣れた。
 慌てている俺の様子を見てなまえも心配になったのか、あたふたと部屋をぐるぐる回りだした。
 その姿が微笑ましくて、ついつい顔が綻ぶ。美穂乃を見ているとなんだか、いつもより楽しい気がする。

「えーと、じゃあ俺はもう降りるけど……みょうじはどうする?」
「どうする、とは?」
「俺はもうここにはいないから。にゃんこ先生もいないみたいだし……一人でも平気?」

 俺がいなくなる、と聞いてなまえがあわわ、とまた慌てだした。ちゃんと帰ってくる、と伝えるとにっこり笑顔になる。くるくると変わる表情にまた笑わされながら、もう一度同じ問いを繰り返す。
 なまえはうーん、と唸ってから大丈夫ですと頷いた。

「今までずっと一人でしたし。夏目さまの部屋はとっても面白いので、どうぞ気にせず行ってきて下さい」
「……そっか。うん、じゃあ、今日はなるべく早く帰ってくるから」
「はい! お待ちしています」

 なまえは笑った。
 彼女はこういうが、一人というのは案外寂しいものだ。俺だってずっと、この眼の、体質のせいで随分人に嫌われた。一人には慣れていると思いたかったときもあった。でも決して慣れることなんてなかった。痛みは消えない。蓄積されることはあっても完全になくなることはない。
 気づくと俺はなまえの頭をなでていた。そうするとなまえは本当に嬉しそうに笑うものだから、時間を忘れそうになる。

「貴志くーん!? そろそろ起きないと本当に遅刻するわよー!」
「!」

 そうだった。本気で時間を忘れそうになっていた俺は、急いで一階へと駆け下りていったのだった。
****
 授業が終わり、田沼の誘いも断って家路を急ぐ。
 ――一人は、寂しいに決まっている。自己満足かもしれない。それでも、彼女の力になってあげたいと思った。そこで、俺はおかしいな、と首をかしげた。最近の俺はなんというか、人にかまいすぎている気がする。人だけではなく、妖など物の怪全般にもついついおせっかいを焼いてしまう。昔から無視できない性質だったが……そこまで考えて、やめた。
 そんなことを今更考えていても、そうしたいと思ってしまうのだから仕方ない。
 とにかく俺は、家路を急いだ。

「ただいま、なまえ!」

 襖を勢いよく開けて、言葉を失った。

「なまえ……?」

 なまえの周りに、蝶が飛んでいた。蝶。蝶。視界いっぱい部屋のそこら中に蝶がいる。数なんて分からない。大きさも、形も、色も、全てが異なったその蟲が、彼女を包み込むように舞っていた。頭が痛くなるくらいの極彩色。俺は再度、彼女の名前を紡いだ。

「なまえ」
『…………』

 すると、息を呑むような気配があった。ざわざわとした空気に脳が警笛を鳴らす。優雅に舞っていた蝶が、こちらをくるりと向いた。小さすぎて眼など見えなかったが、気配がこちらを向いていた。
 なまえはぼう、と虚空を見つめている。俺に気づいてもいないようだ。
 異常な光景に何もいえず、彼女に、手を伸ばした。

 その華奢な肩に触れた途端、示し合わせたように蝶が消え去った。一瞬の出来事で、つい驚愕の声を上げてしまう。
 なまえの瞳にだんだん光が戻ってきて、そして、視線がかちあった。びくりと身体を震わせ、泣きそうな顔をする。今のはなんだったのかと尋ねようとした俺を、低い声が遮った。

「夏目、止めろ」
「せんせい…………」
「大丈夫か、なまえ。辛かったら横になっていい。私の身体を貸してやる」

 なまえは俺に見向きもせずに、先生へと寄っていった。獣の姿をした先生は拒まず、優しくなまえを抱きしめるようにその大きな身体を丸めた。子供をあやすように尻尾で背中を叩いてやると、なまえは安心したように瞳を閉じた。

「先生……今のは?」
「やはり、山から遠ざけるのは早かったみたいだな。お前の存在に蝶が反応している」
「それはどういう」
「知らん。あの小娘にでも聞いてみるがいい。家に文献があったといっていたしな」

 にゃんこ先生はなまえを見つめたままでそう答えた。
 小娘は多軌のことだろう。俺はまだ先程の光景を受け入れられないまま、大きく息を吸い込んだ。そうしないと、今立っている場所から崩れてしまいそうだった。

(君がなにを考えているのか、俺にはわからないよ)

 にゃんこ先生に包まれて眠るなまえの顔は昨日と変わらないはずなのに、胸がひどくざわついた。



  
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