第2回 | ナノ
あたまのなかがぐるぐるする。
そう感じたのは、犯人を追いかけて地下に走り込んだときだった。複雑な造りのなかを、逃走中の犯人は、まるで誰かに導かれるように進んで行く。最初は、潔癖症が再発したのかと思った。鼻が曲がりそうな異臭、ねっとりと汚れた壁。以前の私だったら、発狂どころじゃない。
ちがう、と直感的に思った。
みんなが少しずつ変わった中で、私だけが変わっていないような気がするのだ。その瞬間、急に全身の感覚がふわふわとしたものに変わる。追い詰めた犯人の激昂が遠い。まるで水のなかにいるかのように、耳の内でわん..と響く。
女が犯人ににじりよる。男がなにかのボタンを押すと、重々しい地響きが伝わった。爆発させたようだった。前に立つ男がドミネーターを構える。そうだ、確か、東金と言った。またなにかを叫んで、男は爆発した。もう見慣れた、赤い幕。見るたびに、自分と同じ人間のものかわからなくなるほどあふれでる血。爆弾魔が爆発して死ぬだなんて、冗談にしては出来すぎだなあと呟くと、横にいた雛川が引いたように小さく身じろぎした。びしょびしょの床に女…常守監視官が膝をついて、犯人の持っていた端末を拾った。素手で触るのは衛生的にどうなんだろうかと思って、ポケットからタオルを差し出すと、彼女は端末の血を拭いた。
いやそうじゃねーよと思って、気づいた。音が、世界が、感覚が戻ってる。ふと足元を見ると、目があった。弾き飛ばされてしまったらしい。最早なんの色もうつさない真っ暗な目を見つめた。私が写ってる。ただ、どんな顔をしているのか、それだけがわからなかった。

「気にしすぎなんじゃない?」
「そうかな。そうかも。」
ふわふわと浮いてる縢に、曖昧に返す。いつだかに、同じことを言われた気がする。いつだっけ。
「幻聴も、幻覚も見えてるのにまだ執行官やれてるなんて不思議だね。」
「むしろ下がってきてるもんねえ。犯罪係数。」
計測器の画面にはミディアムブルーと112の数字。
縢の幻覚を見始めてから、私の犯罪係数は少しずつ下がっていってる。
「このままいったら、一般人に戻るのも夢じゃないかもね。」
「その前に分析室にまわされるよ、きっと。」
「だね。」
ベッドに体を投げ出す。ご飯は…いいや。うっとおしくて、最近はホロをつけることもない。支給品じゃなくあいつのと同じ、クリーム色のカーペットの赤黒い染みが目にいたかった。
「禁酒したらいいんじゃない?」
「…最初はビール、次にワイン、カクテル。」
「今はウィスキーだもんねぇ。」
ガラスの細かい屑が照明の光に反射して、赤黒い染みが輝いて見える。そこに、真新しい血痕があるようで。
ああ思い出した。あのセリフ、最初に縢がジェリービーンズを差し出してきて、私は、いらないと断ったんだ。縢がジェリービーンズを普段から手掴みで食べているのを知ってたから。
あのあと、結局食べたあとに吐いちゃったんだっけ。でも、何でだか潔癖症は治りはじめて。
私の世界は、縢によって広がったんだ。

「大丈夫?」
「!!」
作業員の一人が、気遣わしげに顔を覗きこんできた。監視官のジャケット着てないんだから、執行官ってわかるはずなのに。なんの怖れの色もなく近寄ってきた男から距離をとる。なんだこいつ。気持ち悪い。
「顔色が悪いよ…肌も。栄養不足なのかな?」
機械が、カロリー計算も栄養バランスも担うこのご時世に、顔色や肌の状態から栄養不足なんて回答を出せる人間がいるはずない。しかも、それはただの工場の作業員だ。こいつは、おかしい。咄嗟にドミネーターを向けた。26。執行できない。それどころか、男は、銃を向けられて笑顔を浮かべた。いつぞやの常守監視官の言葉が甦る。槙島聖護にドミネーターは効かない、と。
こわい。また、あたまのなかがぐるぐるする。指先が冷えて、背中をねっとりとした冷たい汗が流れる。宜野座さんは新任の執行官たちを連れてどこかへ行った。常守監視官は東金と先へ進んだ。誰もいない。たすけて、だれか、おねがい、だれか、
「なまえちゃん、」
「…かが、り。」
肩にぽんと手をおいて、縢が隣に現れた。外で出てくることなんて無かったのに、どうしてだろう。落ち着いて、と縢が言うと、冷たく強張っていた指先に、じんわりと血が通った気がした。
「落ち着いて、朱ちゃんとこまで走んな。」
「…うん、ありがとう。」
一人でぶつぶつと話しているであろう私を、作業員の男はただじっと見ていた。その視線は、親が、我儘をいう子供を宥める、いや、仕方がないと言わんばかりの慈しみのこもったものだった。
おさえきれないくらいの胸くその悪さに吐きそうになりながら、一目散にそこから離れた。
「ありがとう縢。」

「…おもしろいなあ。」
縢がその言葉に一度振り返って、ふわふわと消えた。



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