第2回 | ナノ
※ノベライズ「無窮花」のネタバレ、原作にない描写あり


ダウンの前を掻き合わせ両手をポケットにしまいながらグソンがセーフハウスに戻ってきたとき、待っていたのは一人ではなかった。気温か気圧の変化か、なんにしろ急激な変化に体がついていけずにぐらりと視界がまわって、冷えた髪が額を叩き、耳の後ろで重低音を流されたような衝撃が奔った。喩えばデコイにひっ掛かってしまった位のとんでもなくあり得ない馬鹿をやっている、とだけ辛うじて考えられた。
「ダンナ……バラしたんですか……」
部屋は一切が闇に浸り、ゆえに真っ白い姿がすらりと立っているのがぼんやりと映えて、それの片手には光を照らし返す剃刀、もう片手に白い手首が握られていた。手首から先は喜んで見たいものではなかった。項垂れた頭、緊張なくゆるく曲がる背中、引き摺られた手足、ゆるんだ足指は床と擦れて赤くなっている。緩やかに空気が押されて動くのを肌で感じ、グソンは眼だけで生きている人間のほうの動きを追った。偽りの赤い眼球が飴玉を転がすように瞼を押して睫毛をひくつかせ、かろりと動く。
「いや、気を失っているだけだ」
「はあ……」
「そういえば確か君にはーーがいたな」
「はい?」
「ならば適任だ」
「これは、」
彼はにっこりと笑って左手で掴んでいた白い手首をぞんざいに差し出し言う。
「君に頼もう」
グソンは短く瞬きする。信じられるか。そして何度も。身体感覚が受け入れるのをすこしでも遅らせようとした。初っ端から選択権はないので。

養豚場から逃げて来た豚だというと、まるでアニマルファーム気分だが、それがあまりに的を射ていた場合はどのような反応をすれば相応しいのだろう。豚の皮膚は人間の肌と良く似ているらしい。だからか、レザーバッグのあの触り心地。ジャケットの吸いつき。靴の馴染み具合。洒落にもならない。足の数が二つも違うのに、類似を覚えてたまるか。傲慢だと槙島は言う。同じ肉を持つもの同士仲良くしなよ。部屋を暗くするか、魂を失えばそう変わらないさ。そうして手に持っていたらしい『変身』を投げてよこした。しっかりとキャッチされる事を分かっていたかのように躊躇なく投擲され、ページを羽ばたかせることなくグソンの手に収まった。グソンは『異邦人』の方が個人的に分かるような気がするんですけどねと胸の内で呟き、耳の後ろの髪を無意識にかきあげた。
「で、あの子は、その、畜産物だと?この国が居心地の良いアングラを擁しているとは思っていたが、今の今まで牧場の存在なんざ聞いた事ありませんでしたよ。……よく黙認されてますね」
「成すべき者が為すべきを為す。シビュラが提唱する原理を違えてはいない」
「ははあ」
「だろう」
「ジョーダンきついですって。このご時勢に臓器売買たあとんだ三流モノだ。結局ナマの費用も安かねえってのに」
「ところで、彼女について何かわかったかい」
「ああ、最悪な事が。ダンナが連れてきたにも関わらず、あちらは場所の目処がついているらしい。あとは、一人で生きていけず自ら困って出てくるのを待っていやがるってところでさ」
「いい動きだ。無駄がない」
「さいで。どうしやしょう?お目溢しは無いみたいですよ」
槙島は柔らかな微笑みを浮かべて、ソファの上で足を組み、その上に肘を乗せてグソンの方をみた。悪戯を思いついたような眼をして。
「では久しぶりに君に仕事を頼もう。彼女の影響から僕達の計画を完璧に逃がしてくれ」
グソンはまた、ぱちりとシャッターを切るような瞬きをした。身体の為ではなく、唇よりも雄弁な瞬きがほんのわずか時間を食った。

あれから槙島はグソンに白衣を手渡し、サブアドレス宛に大まかな情報を送り、「使うといい。小物は馬鹿にできない」というおかしな一言と一緒に木製のモダンなバインダーを手渡し、銀色のシャープな0.5ミリボールペンを白衣の胸ポケットに差し入れてから帰っていった。見送ってから部屋に戻ると、カウンターテーブルの上に、ご丁寧にも仕事の雑費を含めて充分な額の報酬が袋にいれられ置いてあった。それを手にとって中身を確かめてから、グソンはソファに寝かされたまま一向に起きてこない彼女を見やった。どうせ、最初からこうなるって分かってたんだ。せいぜい飽きられない仕事をしやしょう。そうして彼女について調べるために、没入型ヘッドギアを被って、よく手に馴染んださわり心地のよい世界へと深夜の異常な冴えと興奮を道連れに身を投じていった。
そしてその日の陽が昇り、しばらくして彼女が目を覚ました時、グソンは全身ホロで女性の姿をとっていた。桜霜で使い倒した擬装がここで役に立つとは8時間前には思いもしなかったろう。
「ここは」
「起きましたか?ご気分は」
「貴方は」
「新しい担当医のスソンです。どうぞよろしく」
「まさか、女の方が来るなんて」
「おかしいかしら」
「今までは男の方のみだったから。そういうものかと思っていたのだけれど」
「そう……」
グソンは溜め息をつく。彼女の手はしっかりと握り合わせられて血流がせきとめられ白くなっていく。明確な緊張、もっと水を吸うスポンジのような娘を想像していたので彼女の反応はグソンを悩ませた。何を話して信用して貰えるだろう。手元には非常にシンプルな情報がたった一枚のプリント紙となってバインダーに挟まっているのみ。番号、性別、年齢、遺伝疾患の有無、投薬歴。彼女が生きた経歴は残っていなかった。せめてそれさえあれば、どのような人間かがわかるかも知れないのだが。
「スソン先生。人を扱うときってどんな気分なのかしら」
「それは、どういった意味の質問ですか?」
「何でもないの!」
「忘れて……ごめんなさい」
彼女は肩をこれ以上ないくらいに縮めて、この世の終わりみたいな顔をして自分の手を白くなるまで握り締めて繰り返し謝罪の言葉を口にしていた。許してとは一度も言わずに、あくまでもすべて自分に非があると思い込んだ上で優位に立つ人の判断が下るのをじっと耐えて待っていた。
「ごめんなさい、スソン先生」
「気にしてませんよ」
「ごめんなさい……」
「大丈夫、忘れます。だからあなたも気にしないこと。濁ってしまわないように」
グソンは困っていた。計画ではできるだけストレスケアを施して元通りにし自分達の関与を消し、そしてあるべき場所に帰す事を目的としていた。安易にドラッグを投与すれば検査に引っかかる。記憶をいじるのは専門外だった。しかし、この様子ではストレスケアをするにはもう十分すぎるほど曇っているのかもしれない。サイコパスのクリアでない臓器など誰が欲しがる?疑問点があたりに散らばって、その中心に彼女。
「ごめんなさい」
「どうしてそんなに怯えているの」
「ここには貴女を害する物など何もないですよ」
「ごめんなさい……けれど私」
彼女が脇へ目を伏せる仕草を追うと、うっかり続きを聞き漏らしそうになった。
「生きさせられているの。自分で生きられないの」
か細い声だった。消えていく。血の気を失って彼女は床の方へ倒れそうになった。慌てて駆け寄ったグソンは、彼女を受け止めてしまった。全身で寄りかかられたときに受ける衝撃。脆弱なホロ。ノイズ。冷や汗が出た。彼女が寝ている間に取り付けておいたウェアラブル端末が複数の血中成分の急変化、呼吸の乱れ、脳内物質の急な分泌上昇と次々に警告音をがなり立てた。
「先生…………」
「はい?」
「お薬を……」
「大丈夫ですか」
「色が……」
警告音が鳴り続けていると耳が異常に慣れて気持ちの悪い音のハーモニー程度に感じられる。胸に頭をついて、喉がうまく通らないふうな呼吸を繰り返しながらも何とか彼女は話そうとする。どこから力を出しているのか、あの白い細腕がグソンの首にまわり、片手で胸を押さえ、肩に顎をのせて彼女は囁いた。
「なぜホロ・アバターを」
グソンは驚いて彼女の頭を押さえつけ、口を封じた。そして素早く体を離し彼女を床に押し付けたときには、相手が何の殺意ももっていなかったことを絨毯に押し付けられ歪んだ無防備な寝顔と手荒く乱された髪から空恐ろしいほどに感じ取っていた。警告音が一つ二つ減り、その威力を抑えていく。女って奴は。

「起きました?」
「はい。おはようございます」
「ああ、おはよう」
「男の方だったのですね。スソン先生」
彼はもうホロを被っていなかった。彼女は何にも気にしていないと、さも自然に笑いかけてくれるもののグソンは嫌な表情を消すのに苦労した。さっきの異常な自責はどこへやったんだ。カルテに沿った組み合わせの一般的な抗精神薬を投与すると眠っている彼女の色相は徐々に薄くなっていった。色相の変わらない人間を知っているグソンからすれば、感情に粗のある平凡な彼女のそれはとても不気味なものに見えた。
「騙して悪かった」
「必要だったのでしょう。でも、もう必要ないわ」
「なんでそんな事がいえるんで?俺が誘拐と暴行の常習犯で、あんたを油断させるためだったのかも」
「それとても面倒そう」
「自分の利益の為なら誰だって手間は惜しまない」
「で、手段も選ばない」
彼女はグソンの胸あたりをちらりと見て、目を合わせて反応を確かめながら疑問を口にする。
「私はいま何も持っていないけれど何が貴方の利益になるの?」
「さあ」
正しくは利ではなく弊害。
「たぶん貴方は悪い人じゃないわ」
「なんで?」
「謝ってくれた」
ものすごく時代錯誤なシーンを見たような気分になった。しかも自分が画面の中にいる。外から見たら間の抜けた顔をさらしてるんだろなとグソンは思った。
「それはなに」
彼女は白い指でグソンの胸ポケットを示した。シャープな銀色のボールペン。
「はじめてみた」
「ああ、これ……」
そういえば白衣はホロではない。グソンは白衣を脱いでソファの背凭れに掛けて、そこに手をつき、もう片方の手を腰に当てた。白衣のポケットからボールペンをすらりと抜いて手の中で回して弄ぶ。
「口を開けて」
「……ええと、あ」
かつっ、ものを噛んだことがないような白くて装飾品じみた歯にペンが当たる。彼女の口腔内にペンを突っ込んだまま四角くペン先をまわして一通り歯を叩き鳴らし、舌を押した。どこにも毒をしこんだ形跡はない。起爆装置もなさそうだ。端末からふたたび警告音。彼女の色相が毒々しい色へと近づく。……何をやっているんだ俺は。テロリストでもない娘に対して。とつぜん戻ってきた平常心が自分の行為をおかしいと詰った。苦味が唾液のように浸み出してくる。
「何かおかしいと思わなかった?」
「いえ……慣れてないだけ」
「慣れるも何も。今のは何の意味もない」
「意味ならあるじゃない。貴方のストレスが減るわ」
「はい?」
子どもじみた瞳が彼女を実年齢より幼くしている。グソンはペンを白衣のポケットに戻すと、頭を振って額に手を当てて考えた。優位な立場の人間のストレスケアをしている?サイコパスが変動する。動物農場。密入国者の何人かと連絡がついたとき、密造酒場、うわさ話、紫煙、ネオン、喧騒の中。馬鹿馬鹿しいつくり話。
「先生?具合が悪いの」
「いや、大丈夫。その先生ってのやめてくれ」
「じゃあどう呼んだら……」
「グソンでいい」
「グソン……変わった名前ね」
彼は目を丸くし、次の瞬間には笑いが止まらなくなった。彼女の口から出た変わってるという言葉。他ならぬ彼女から。グソンは自分が気を緩めつつあることを忘れていた。ここはセーフハウスだが、目の前のこれこそが安全を脅かしているという事実を忘れそうになっていた。
「何が面白かったの」
「知らなくていいさ、おかしなお嬢さん」
彼女が急に咳込む。先ほどの無礼が原因かと思ったら、長い間咳が止まらずに苦しそうな息になる。そういえば空気が乾燥している。室内管理のメンテはグソンひとりだと気にならないので放っておいていたから、いたるところ動作不良になっていたのを思い出す。
「飲み物をいれやしょう。何がいいんで?」
「何でも」
「それ、一番困りますよ。じゃあコーヒー飲める?」
「……うん」
「砂糖とミルクはどれ位いれれば」
「え……貴方と同じで」
「はいよ。それじゃ少し待ってて」
ふと会話が途切れてから、サイドボードに置きっぱなしになっていたタブレット型携帯端末に彼女の視線が止まった。
「待っている間、暇でしょう。それ貸しますんで好きにしててください。操作は分かります?」
「多分……バイタルケア用のと同じだわ」
「へえ」
コーヒーをいれ終えて、もう一度温めようとした時に、タイミングよく呼び出しがかかった。手早くチェックしてからグソンはダウンを取りに行き、画面に釘付けになっている彼女を見ながらそれを羽織って準備をしていた。ちょっと失礼と一言かけながらタブレットを取り上げ動画サイトをトップ画面に呼び出して彼女に手渡した。あっと思い出してキッチンに行き、忘れていたコーヒーを持ってきて彼女に渡す。彼女は慎重に匂いを嗅いで口をつけ、思い切って飲んでなんとも言えない表情になった。そりゃあね。
「俺は出掛けますんで、ここで待っていてください」
普段どおり厳重にロックを掛けていくので、注意は必要ないはずだった。が、気がついたら口走っていた。
「外は危険だ。出ないで欲しい。意味は分かりますね?」
彼女はさっと表情を強張らせて、唇をうすく噛み顎を引いて一度だけ頷いた。
「分かった。気をつけて。グソン」
外への好奇心が感じられない反応だった。彼女の手元でタブレットの画面がカートゥーンを映し出していて場違いな明るい絵づらを光らせていた。下から光に照らされた彼女の顔が歪んでいる。

「あれに似たのを見た事がありますよ」
グソンは侮蔑と羨望の綯い交ぜになった嘲り笑いを浮かべて言った。ざざ降りの雨が地面や溢れた下水や横たわる人間、街が積み上げたそれらの汚れを洗い流してゆく。この場所はエデンの東、かつての都市の心臓。なかでも比較的整った地域の、カフェのオープンウィンドウ席に槙島とグソンは座っていた。
「おや」
そのとき。逃亡中とは思えないほど堂々と踵から激しく露を跳ねさせて、水溜りを踏んで彼女は階下のテラスに駆け込んできた。グソンは見た。槙島は彼の表情を見た。次の瞬間、グソンは小さな舌打ちと共に椅子を蹴って、階下へ続く階段へ向かっていた。大層待たされた紅茶とスコーンが2セット運ばれてきて、首を傾げたウェイターに槙島は微笑みを浮かべてみせた。ゆっくりと紅茶がカップへと注がれる。そして、湯気のたっぷりと含まれた飲み口へと唇を寄せてーーそこは暑く夏の時雨を潜るかのようでーーそうして葉の薫りを感じた。保管場所が悪いらしい。微かに黴の臭いのする湿り気に槙島はすんと鼻を鳴らす。仕草の反面、表情は柔らかだった。窓は静かに重みに耐えかねて涙を流し、外では激しく雨粒が風に嬲られていた。路上に固まったポップはこの辺りではレベルの低いものばかりだからだろう、ノイズまみれになっている。この店の階下にあるショーウィンドウのように時折精巧なものも散見されるが、それでも擬装の下を透過して見せてしまう。時代を気にもせず雨は降り、しかしその雨は今の街並をオールドファッションな世界に変えてしまう。踏み千切られたパルプ紙の上へ、路面の上へとつづく細い雨は、繋がった糸を空から宙に幾本も差し出したかのようだ。気にしなければ音もなく降る。グソンはどうするか。彼は膝に視線を落とし、瞼を閉じる。目を開けて窓の外を見た。一息に低くささやく。
「目一杯気をつけろ。なんじ生きんと欲するならば」

「グソン!」
「なぜ外へ出たんだ」
「メールが来て、」
彼女は命のように大切に抱き締めていたタブレットを見て、グソンを見る。髪から大粒の水滴が何度も地面に落ちてシミをつくる。グソンはタブレットをもぎとった。
「そんなことはありえない」
画面には、店のURLと地図だけが載っている。
「どういうつもりだ……」
送信先はまったくもって面識のない人間のアドレス。こちらの面が割れてる可能性も今は否定できない。とりあえず槙島のダンナに……と考えたところで隣に彼女がいることを思い出した。
「外で見知った人間を見たか?」
「見てない……普段から担当医や他の人はみんなホロを被っていたから」
心配そうにグソンの表情を覗き込んで彼女は腕を掴んでいた。
「とにかくここにいて動かない。いいな?」
彼女がしっかりと頷いたのを横目に、グソンはすぐさま階段を二段飛ばしで駆け上がっていった。

「ダンナ、この場所を離脱しましょう」
「下の彼女は?」
「俺が連れていきます。気をつけてください」
「ああ、君もね」

どこから監視の目が及んでいるか分からない現状では、別のセーフハウスへ行く事は躊躇われた。ずいぶんと遠回りをして結局もとのセーフハウスへと戻ってきた。二人とも全身から雨をしたたらせ、服はへばりつき、温度調節機能は壊れて効果を無くしていた。濡れ鼠の彼女を怒鳴りつけることに躊躇いは無くなっていた。すべてのせいで。
「なんで外に出たんだ」
「貴方が危ないと思ったから」
「どうやってロックを破った」
「勝手に開いたわ」
「畜生!プログラムを組み直さないと」
「ごめんなさい……」
「ああ、本当にな!」
グソンが部屋をロックして立ち去る。彼女は扉に凭れてうな垂れ静かに涙を流す。警告音が鳴り、いつか彼女は望まない眠りに落ちる。

それからは静かなものだった。あちらから仕掛けてきたのはあのメールのみだった。グソンは彼女にあたり過ぎたと後悔して、その穏やかさを維持できるようできるだけ気をつけていた。非日常な穏やかさだった。帰れば電気が点いていて、生身の人間の出迎えがある。食事に気を使うようになり、購入するものが二倍になった。グソンは自分の役割を忘れたくなっていた。あちらが何もしてこない以上、警戒は怠ってはいないものの何もする必要はないのでは、そう思った。
ある日、彼女の持っていたタブレットに電子書籍が送られてきた。彼女は心配させまいとグソンに知らせなかった。『冷たい方程式』最後に一言メモが残されていた。読み終わったら返してもらいに行くよ。

目を覚ました時に、膝に乗せていたタブレットがすべり落ちそうになったのを見て、慌てたように覚醒した彼女は、ブランケットのクリーム色の波打った中なめらかに滑り落ちてゆくそれを遅れて手で追った。すっと視界になんの違和感もなく白い手が入り込み、タブレットを拾い上げていったので、彼女の手はただ空を掴んだ。紅茶の香りがカーテンをこちら側にむかってなびかせるように時間差で漂ってきた。目の前の男はうすい微笑みを浮かべてゆっくりと瞬きし、言った。
「面白かった?」
「え、と」
そうだ。
「マキシマさん……」
「覚えていたのか」
彼女が逃亡に成功した時、恐ろしいタイミングでマキシマが始末をしているところに出くわしてしまった。裏切り者め!と声高に彼を非難する男。喉元に刃物を突きつけられて震えた声でマキシマと叫んでいた。彼女が最後に見たのは、白い姿と鋭い光、衝撃を受けて昏倒するまでの短い時間がはっきりと恐怖として焼きついていた。望んで忘れていた、それが今ようやく彼女の記憶に帰ってきた。彼女は目を見開き、身を退いたが満足に動けたようには見えなかった。
「怯えなくていい、何もしない」
「……何をしに来たの」
「何も」
「私を消すの」
「いいや」
槙島はひとつ頷いて彼女を上から下まで眺めた。ショックに気をとられている。
「君がもとの場所へ帰る手伝いをしよう」
ふと近くのネオンが点滅する。あたかも彼女の会話に添おうとするように。彼女が一つ発音するたびに、過剰に付与された装飾語のように、暗闇と蛍光色が彼女の肌上で浮沈する。やかましい景色の中で微動だにしない彼女のかお。
「それが望み」
「ああ、少し惜しいけれど」
「うそをついても無駄よ」
「信じられないか。君は面白い」
「面白い?……おかしなこと」
彼女は目を伏せ、動物に似た長い睫毛が時間に凝固する。
「たった、それだけの為に」
「大切な事だ」
「ええ、生きる人にとっては大切でしょうね。私には分からない」
「分からないと言い切るその自信はどこから来たんだろう。教えてくれ」
「そんな、酷い。だって、わたしにも分からないもの……」
槙島は悠々と微笑みを浮かべて場を堪能した。大衆の魂をのべるために一人の人間の口を借りたそれを目の前にして。彼女の言葉は震えてこそいるが発音は揺るぎなく、抑えられているが確信に満ちている。
「マキシマさん。あなた、いつか静かに死ぬのかも知れない。静かに死ぬのが赦されないほどの事をした人なのに」
「誰に許されない?」
「社会」
「そうか……君の言うところによると、僕は静かに死ぬんだ」
「ええ。その時が厳粛に迎えられる事を祈るわ。教えて。グソンはどこ?」
「ああ、彼はね」
一息つく間に彼女は槙島の意図を察して好きなだけ怯えた。
「仕事上のパートナーだ」
彼は直接手を下さない。彼の責任ではない。彼は己のした事を忘れる事ができなくなる。槙島は違う。オブザーバーは権利がないが、記録するか否かは自由である。彼の望みは他でもない、あわれなる罪人がただ彼の人の答えを待ち続けて保ち続ける問いである。
「残念だが時間がない。君は確かに未来を見始めたが、自身で選択する責任が伴う事を知ったほうがいい」
彼はそっと睫毛を伏せた。剃刀の刃先を目でなぞるときの仕草。手元には出していないがいつでも目の前の首に吸い込ませる事ができた。だが、槙島はいまさら観察者の枠を越えようとはしなかった。最も興味のある事柄はまだ始まっても終わってもいない。
「君の好きにするといい」
槙島は顔をあげてそう呟く。目を見開き、口を開けた彼女は手を見、タブレットを見、視線を彷徨わせたあと再び槙島を見てぼろぼろと涙を落とした。あの、雨の日。窓の外は夜だったが、どことなくネオンがけぶる。目の前の光景がぼやけて、白と夜が混じり合っていく。優しさは強さだった。強さは弱い心を認めなかった。ただ、自力で行動できるようになるまでずっと見守っていた。

その日の夜、グソンは遅く帰ってきた。彼女は窓に額を当てて外を見る。吐いた息が白い。窓を手で雑にぬぐう。タオルを持って入り口へと向かった。
「お帰りなさい」
彼女はタオルを差し出し、グソンは受け取って雑に髪の滴をぬぐった。
「え、ああ、ただいま。どうしたんで?酷い顰めっ面だ」
「うそ、ほんと」
グソンは彼女の手の中のタブレットを見た。
「たまには休憩を挟んだほうがいい」
「え、どうして」
顎で指し示して、そいつを長時間視聴すると具合が悪くなるしサイコパスにも悪影響だと伝えたが、彼女は視線をタブレットに向けながらぼんやりとしたままだった。
「疲れてる?」
「そうね。……とてもつかれた」
彼女は相変わらず沈んだ面持ちを崩さない。グソンはできるだけ優しい対応をしようかと考えた。温かい飲み物をいれにキッチンへ向かう。
「俺達はみんな疲れているさ」
と彼は言いながら、電気ケトルを動かしてコーヒーの用意をした。ぼんやりとしていると普段より雑な注ぎ方になる。彼女は変わらずぼんやりとして、ソファに座って真っ暗な外を眺めていた。タブレットが落ちかかっている。グソンはそれを取り上げて、こちらを向いた彼女へカップを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
彼女はそう言って一息に飲んだ。
「隣に座らない」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「ごめんなさい」
「はい?急に何ですって」
「……あなたのぶんまで飲んでしまうから。先に謝っておこうと思って」
「なんだそれくらい。構いやしませんよ、俺は」
言いながら彼は自分のカップの把手を彼女に向けて渡し、自分は彼女の空っぽのカップを受け取った。
「ありがとう。優しいね」
「……どうも」
思うままに言ってしまえる彼女を煙たく感じた。それと同時になぜか羨ましくもあった。ネット接続をオフにしたデバイスを用意して、それで時折彼女をサイマティック・スキャンして観察していたが、ストレスケアもむなしく彼女は鮮やかな色彩を見せた。数値はふらふらと上下して安定せず、不安な表情をしている時は兎も角、グソンが出した菓子を賞賛し、喜んで食べる時さえ僅かに上昇した。しかし眠る前に薬を投与するとゆっくりと収まっていった。なぜか、すべて同じ製薬会社から出ている市販の薬だった。
「私、そろそろ帰らないと」
「どこに」
その時の彼女の微笑み。薄暗がりの照明に陰翳を付けられた、何の感情も鮮やかに浮かべられない表情。泣いているように見えた。涙などなく、微笑んでいたのに、泣いているようだった。外の雨が音を増す。
「私がここにいると困るでしょう。貴方のためにならない事はしたくない」
「まだ怖いのに……お願い、臆病者って笑って」
つい遮るように断定的な言葉が口をついた。
「君は臆病者じゃあない」
「うそ」
「臆病と逃避は違う。君は逃げていない」
「強い」
この言葉を言うと、グソンには忘れられない人の笑顔が否応無く蘇ってくるのだった。
「そうかしら。そうね。少なくとも貴方がそう言ってくれたことで少しましになったわ」
気丈な嘘を。肌が青白く乾燥して、執拗に押さえ付ける手も声も震えている。こういう時は手を繋ぎ、髪を撫でて、瞼を掌で覆い隠してやればいいだろう。彼女はそうされる事を望んではいないのだろう。グソンは自分の知るやり方の一つも実際には行えず、ベッドの横に椅子を牽いてきてそこへ座り、背を丸めて顔を寄せて己が下したことの結果をじっと見届けていた。死ぬために、死なないために生きる事は苦痛だ。しかしこの都市では死ぬべくして生きる事を忘れた者ばかりだと思えば、彼女の弱弱しい抵抗は尊ばれて然るべきだった。ゆっくりと、或いは時間に急かされながら我が身の結末を受け入れようとする精神の準備。

なぜ奪った。
苦痛なくして慰安はないのに……

彼女の嗚咽が異国語のように聞こえる。歪み、認知が疎かになる。グソンは両手で自身の顔を覆った。そうすれば今拘泥することはもう何にも無くなるのだった。いつの間にか深い眠りの淵へ落ちていった。優しい手が髪を撫でつけた。

オレンジのライトが断続的に横顔を照らし出す。車内にも関わらず、槙島の吐いた息がぶつかった窓は白かった。白く細い指先が車窓をなぞる。
「彼女を送ってから先君は少し寡黙だね」
「何か思う所があるのかい」
「ダンナ、らしくない事なんてやめて下さい。似合わない」
「それに俺ぁ慰めなんて欲しかないや」
「ほう。ねぇグソン、今の君は難しそうだ。もう少し簡単に考える事をお勧めするよ」
「はあ」
「彼女、どう思った?」
「どうだか」
普段丁寧に言葉尻や皮肉を受け取るグソンは、普段ならしないようなぞんざいな返事をして雨垂れの流れる窓の外の眠らない都市を見やった。呼吸が窓に当たって白く跳ね返り、一部吸い込まれ結露して端から崩れ去った。
赤い目にうつる、招牌のネオン、ことさら喧しい交通規制のライト、ビルの影で蛾が集り流動するドットを描くバグライト。切れかかりちらちらと明滅するブラックライト。ヘリポートの誘導灯の赤い点滅が射し込む一瞬一瞬、そこだけ目は生物のつやをみせ奥から抜け目無く獲物を誘うチーターの光を放った。そっと顎に手を支えて赤い目を細めて暫く夜の街を眺め、さもふと気がついたとでも言いたげに摩天楼を振り切って、雇い主の顔を覗いて態とらしく肩を竦めて見せた。脂の滲んだ額に数本の皺が引かれ、こってりした疲労が露わになっていた。
「ああ。すみません。ぼうっとしてまして。まあ、嫌いじゃありませんでしたよ」
槙島は微笑んで「ふうん」とだけ言った。応え方のズレは黙殺された。
「キッチュな子でしたよ」
「キッチューー可愛らしい。今時らしい。はた、伝説において一概に悪属し害を為したと伝えられた名も無き怪物たち。なぜそう考えた?」
「深い意味はありませんって」
「そうか。ところで随分疲れた様子をしている」
「俺が?まさか」
「君には大切な妹さんがいただろう。彼女の代わりになるような何かを得たかい?」
遊びのつもりでいた。誰かと一緒にいて、やさしい気分で、微笑みかけられ寄りかかられ、そんな誰かの世話をすることを楽しく思っていた。記憶を頼りに夢を見た気分だと思った。舌がざらつく。舐めるまでもなく唇が乾いていた。
人が優位に立つ人間のストレスケアをする。それは暴力だ。
眠る前に、緞帳の引き紐がわりに髪を弄くりながら、その氷の下で流れる水の淀みなさを代替した瞳で「そしてここまできたの」と彼女は言ったのだと。それを語る彼の細い目は、いまはもう持っていない眩しいものを見る人のような、可愛いものを侮蔑しながら庇護する人のような表情をしていた。トンネルのライトが鼻梁の高さぶんの陰翳を被せて彼の今の顔を照らしていく。思い出は遠く霞み、今は意識の底で微睡む。浮かぶのは些細な切っ掛け。「いつか、いつでもいい。思い返して。自分で選択して、ここまで来たこと」君は人生のほとんどを他者に選択されて生きてきた。君は数回だけ自分で選択する事ができた。死への選択を。終着駅は朝まだき、夜の国。がらんどうのプラットホームに女の足首が一組浮かぶ。一つしかないがために、如何に抑えても喧しい主張をする靴音を響かせて立ち去ろうとしている。屋根のない方へ。灯りの届かない方へ。姿が目視出来なくなっても、音は途切れることなくダカーポする。隔絶した信号、街灯、低く這い進むホワイトライン、光の束の間で監獄島と化した中央分離帯。道を覆う枝垂れ木と豊かな葉の影で地下道がだぶる。夜は燃焼するもの以外を朧げに、ディテールを覆い隠して均質化する。ここは暗すぎる、車が走る軌跡が続かない。いうに堪えないがこれではどこかしら亡くしたあの居場所のようだ。やめろ。やめだ。遮断、強制終了。彼は冷ややかに瞬きする事で過去からキックバックした。都市の冷たい夜景は彼の宝石のような紅い目を鞣されたつまらないものに変える。死なない為に生きて、生きる為に忘れる。奇しくもあの光の街の人々と同じ動機で。視界の外れの幻は水仙、甘さを含んだ露を受け入れ項垂れるように頷く。ホロとは違い、そっと雨に触れていた。



いつかどうしても悲しいときに

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -