第1回 | ナノ
「槙島さん、いつまでここにいるつもりなんですか?」
 廃棄区画の一角に佇む雑居ビルの一室にみょうじなまえはいた。
 室内は整然としている。ホログラムが使用されていないせいもあるのだろうが、冷たいような物淋しいようなそんな雰囲気がある。そう感じてしまうのは物が極端に少ないからだろう。
 シンプルとは聞こえがいいかもしれないが、目につく物といったら本棚とソファセットだけだ。
 家主のなまえは座り心地の良さそうなソファに腰掛けて本を読んでいる。その隣には槙島聖護がいた。
 槙島は何を考えているか分からない顔にうっすらと笑みを浮かべている。勝手に淹れた紅茶を飲んで、好みそうにない本を興味のないそれで読みながらもなまえよりも寛いで見えた。
「槙島さん聞いてます?」
「聞いてるよ」
 なまえの苛立ちが募る。横目で槙島を睨むが、槙島は気にも留めずにページを捲っている。なまえは眉根を寄せた。
「何をしに来たんですか」
「もちろん君に会いに」
「……。あなたはずいぶんと暇なんですね」
「僕にもいろいろやらなくちゃいけないことがあるからね。別段暇というわけでもないよ。でも、君に会いたかったんだ。忙しくても君のためなら時間を作ることは出来る」
 暇というそれを強調して嫌みを言ったというのに槙島は簡単に返してきてしまう。
 なまえは動きを止めた。手元の本をじっと見つめる。端から見れば読んでいるように見えるだろうが、なまえは文字の羅列をただ見ているだけだった。
「ねえ、槙島さん」
「なんだい?」
「早く帰って」
「それはまたずいぶんだね。僕はさっき来たところなんだけど」
 槙島は本を閉じるとローテーブルの上に置いた。それを気配で感じながら槙島を窺うと、視線と視線が絡む。金と黒がぶつかった。
 金色の瞳は綺麗だった。濁りを知らない純粋な色をしていると思った。
 だが、なまえは瞬時に目を逸らした。手元の本に視線を落とす。
 なまえは槙島の瞳が苦手だった。全てを見透かされてしまうような暴かれてしまうようなそんな力強さが槙島の瞳に宿っているような気がして。だから視線を合わせないようにしていたし、合わせたくなかった。
「僕がここにいると都合が悪いとでも言いたそうだね」
「……。勝手に来ておいて何を言ってるんですか。わたしの都合なんてお構い無しのくせに」
「ふふ。そうかもしれないな」
 そう言って槙島はなまえに手を伸ばした。なまえが見るともなしに見ていた本を奪い取ると、先程のように本をローテーブルに置いてしまう。
 手持ちぶさたになったなまえは「何するんですか」と訴えるように槙島をねめつけた。
「邪魔しないでください」
「そんな状態で読んでも頭に入ってこないよ。それは本に対して失礼だし、頭に入ってこないなら読まないほうがいい」
「…………」
 これ以上話していても無駄だと感じたなまえは一呼吸おいてから次の言葉を紡いだ。
「早く帰ってください」
「…………」
「わたしにも用事があるんです」
「用事、ね。これから誰かに会う予定でもあるのかい?」
 槙島の問いになまえは黙する。探るような視線を感じたけれど話す必要はないと思った。
「誰に会うか当ててあげようか?」
「え……」
 なまえは緊張した面持ちで目を瞠った。
「いったい何を……、」
「狡噛慎也」
 その名前にどくりと心臓が跳ね上がった。
「公安局刑事課一係所属のエリート監視官。なかなかの経歴の持ち主だ。君の新しい彼氏かい?」
「調べたんですか」
「うん。少し気になってね」
「…………」
「僕は自分のものに手を出されるのが嫌いなんだ。調べるくらいはするさ」
 その言葉になまえは愕然とした。
「違う。違います。……わたしは……あなたのものじゃない。わたしは、」
 息を詰めるように吐き出した。どっどっどっと胸の鼓動が早くなる。
 なまえは目の前の男に恐怖と緊張を同時に感じていた。怖いと思うし逃げ出したいとも思う。けれど、そうしないのはなまえの意地のようなものだった。
「僕のものだよ。君は僕から逃げられない。それは君がよく知っているだろ?」
「っ……」
 槙島の笑みが深くなる。金の両目は全く笑っていないけど、口元は綺麗な弧を描いていた。まるで人形のような笑みだ。怖い男だと思いながら槙島をじっと見つめていると槙島の手が伸びてきた。冷たい指先が頬を撫でる。なまえはひくりと肩を揺らした。
「本当は君をひとりにしたくないんだ。僕の傍においておきたいのを我慢しているんだよ。……君がどうしてもと言うから籠の中で飼っていたのに……間違いだったいみたいだ。少し甘やかしすぎたかな」
「…………」
「ああ。今度は籠じゃなくて檻にしようか」
「、」
「羽ばたけないように閉じ込めるのも悪くないね。……どうかな?」
「……そんなの嫌に決まってる」
「だったら僕以外の男と関わりをもつのはやめるんだ」
「…………」
「分かったね」
 なまえの頬を撫でていた手がなまえの顎を掴んだ。ぐいっと上向きにされて少しだけ息苦しくなる。
「返事は?」
「……はい……」
「いい子だ」
 腕を引かれ、腰を抱かれる。槙島と体が密着し、衣服越しからぬくもりが伝わってきた。
 襟足の長い銀糸の髪がなまえの頬を撫でる。くすぐったさに槙島の腕の中でもぞりと動くと、香水らしい香りと体臭が合わさったにおいが鼻腔を抜けた。
 頭がくらりとする。眩暈のような感覚に戸惑うけれど、腕の中に閉じ込められたままでは逃げ出すことは出来ないだろう。なまえは諦めて大人しくすることにした。
「……彼にはもう会わない……。だから……」
「君がいい子にしてるなら何もしないさ」
 なまえはそっと目を閉じた。内心で息をつき、脳裏に浮かぶ狡噛を見つめながらごめんなさいと謝った。
 狡噛と一緒にいるのは楽しかった。甘ったるい関係ではなかったけれど、気の許せる相手ではあった。そんな彼とはもう会うことはない。残念に思うけれど、こうしたことは珍しくなかった。
 槙島が気に入らなければ、なまえの意思に関係なく全て拒絶されて遮断される。どんなに抗っても聞き入られることはない。
 いつの頃からかなまえの感情は麻痺してしまった。何も感じなくなったけれど、それでも悲しいとか寂しいとか嬉しいといったものは時折感じることがある。だが、それだけだ。諦めることを覚えたなまえは執着を持つことを諦めてしまった。
(…………)
 おそらく数日もすればこの部屋は引き払うことになる。新しい場所に居を置くことになるだろう。携帯端末も新しいものに変わるはずだ。
 気軽に外出も出来なくなるだろうし、もしかしたら外出禁止になるかもしれない。セキュリティーシステムが万全の住処で軟禁生活を強いられるだろうというのはなんとなく予想がついた。
 だが、何もかもが今更だ。最初から自由なんてなかったのだ。自由を望んではいけなかった。
 なまえは槙島のものだ。槙島に囲われることでしか生きられない。槙島がなまえの命を握っているといってもいいだろう。
 目の奥が熱くなる。目尻に涙が溜まるのが分かった。嗚咽を洩れないように唇を噛み締める。
 不意にぽろりと涙が零れるけれど、下に落ちることなく槙島の服に染み込んだ。
 狡噛さん、と声に出さずに呟きながら固く目を閉ざすと瞼の裏に狡噛が現れた。狡噛は何を言うでもなくなまえをじっと見ている。なまえも同じだ。狡噛を見つめた。
 狡噛が手を伸ばしてくる。それにすがりついてしまいたかったけど、すんでのところで動きを止めた。
 これ以上は駄目だと自分の中の何かが囁く。なまえは眼前の狡噛にごめんなさいと謝ることしか出来なかった。じくりと胸が痛んだ。



ゆらぐ群青とさざめく吐息

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -