第1回 | ナノ
 ある女性に連絡を入れた日には、決まってある書店へ車を走らせた。その日にちに規則性は無い。ただ時間が空いていたり近くに寄る用が出来たりすると、ほんの気まぐれで端末にメールを送るのだ。数冊の本を入れた鞄をさげて、人通りの少ない路地をいくつか右折した場所に位置する店へと向かう。現在では衰退してしまった紙の本を扱っている、極めて珍しい場所だった。豊富な品ぞろえと購入した本を黙読できるスペースが魅力的な店は、読書家にとって絶好の憩いの場だ。しばらくすれば毎度違う服や装飾品で彩られた格好で、彼女はやってくる。そして好きな本を手に取り、好きなように読みふける。その隣で自らも読書を堪能することが多々あった。
 そしてこの店では購入できない本を、数冊彼女の鞄に忍ばせる。今では色相の濁りが懸念されるようになり、規制対象となった書物は当然取り扱いが無かった。しかしその対象内には多くの秀作が含まれており、ライターの炎で灰にしてしまうにはあまりに惜しい。そんなある日の会話をきっかけに本を貸し出すこととなり、顔を合わせた時には無言のまま本を手渡すというのがすっかり習慣となっていた。

 書店に並べられた本へ手を伸ばして中身を意味も無くめくっていると、女性特有の白い肌の手が視界に入ってきた。その指たちは自らの存在を知らせるように、そっとページをめくっていた手に被さり、握りしめてくる。

「お久しぶりです。」
「久しぶり。」

 世間一般で言う『善良な市民』である目の前の女性―――みょうじは、まともな神経を持っているはずであるのに、規制対象である本を見知らぬ男から借りてしまうような人間であった。おまけに公の場で読めないのは大変残念だ、とまでいって。
 大学へ通う彼女は読書を嗜むだけあって、かなりの好成績を収めている。それほど賢い人間である彼女が、書物による色相悪化の恐怖心よりも書との巡り合いを優先させてしまうだなんて、活字中毒の末期症状に他ならない。ファンタジー、恋愛、サスペンス小説から哲学書や童話まで。彼女の知識欲は底知れないものであった。
 知り合うまでの経緯はいたって単純で、読書についての会話が盛り上がったことがきっかけだ。それからこの場所で顔を合わせればお互いあいさつを交わし、短い会話も何度かした。両者とも深く関わろうとすることも相手の事を知ろうとすることも無く、ただの隣人として。恐らく興味がなかったわけではなく、ただ互いにそれで満足していたのだろう。しかし徐々に芽生えた彼女へ対する好奇心もあり、この店を訪れる時間をメールを通じて合わせることとなった。確か初めての誘いは彼女からで『今日の午後あの店に行くのですが、一緒にどうですか?』といった文面が端末に表示されたのを覚えている。進展も好転もする兆しを見せなかった関係を構築したのは、彼女の誘いと僕のほんの気まぐれだった。

「この間の本はどうでしたか?」
「確か君が進めてくれた...グリム童話だったね。楽しく読ませてもらったよ。」
「いつも借りてばかりですから、たまには私から本をお勧めしてみたかったんです。楽しめていただけたのであれば、幸いです。一応な所童話ではありますが、解釈によっては随分と壮絶なストーリーになっていて。大人でも楽しめてしまう所が魅力でして。」
「児童向けにしては少し過激なものも多いからね。簡易的な文面であれば読み手が物語を自由に創造出来るというメリットもある。」
「やはり分って頂けましたか!ちなみに槙島さんはどのお話がお気に入りですか?」
「僕は...『子供たちが屠殺ごっこをした話』かな。」

 子供が犯した、悪意無き殺傷を罰するのか?と作中の登場人物たちは問いかけられる。その罪を図るために林檎と銀貨を子供の前に差し出して林檎をとれば無罪、銀貨をとれば有罪とすることに決める。すると子供は笑いながら林檎を手に取った。そしてその子供は無罪になったいうお話。
 もし罪を裁く基準がその者の行為自体にあるとするならば、その子供は刑に処されているはずであった。しかしそれらの行動が幼少期にある好奇心であったことは明白であり、人々はそれを従来の法で罰して良いのか判別することができなかったのだ。
 そして思った。果たして刑罰とは何をもってその大きさを決めるのだろうか?法か、罪の大きさか、それとも悪意か?童話が人の手によって書かれた時代には、たったの林檎と銀貨だけで罪を測量することもできた。刑罰の下し方について人間自身が悩むことさえできた。しかし今の社会はどうだろう。シュビラが人間を管理して罪を測定し、刑罰も同時に機械が答えを導き出す。罪を犯すのは人であり、その罪を罰するのも人であった時代こそ、人が人であった時代だったはずなのだ。

「だからこそこれは実に人間らしい話だと思う。」
「...人間らしい、ですか。やはり槙島さんは面白い捉え方をしますね。」
「そうかな?僕はただ率直に感想を述べているにすぎないよ。」
「その素直がおもしろいというか...魅力的なんです。」
「ほう。むしろ君の方が多角的な意味で面白味のある性格をしていると思うけれど。」
「私こそ退屈な人間だと思いますが。」
「それはとんだ謙遜だね。」
「今の褒めてたってことですか?」
「一応は。」

 可笑しそうに笑う彼女に、あたかもつられてしまったかのように口角を持ち上げれば、疑いもしない真っ直ぐな瞳が素直に受け取った。彼女は免罪体質とはいかずとも、世界の薄汚い部分を見つめてもなお率直であり続ける思考を持っており、それはシュビラに歓迎されているらしい。俗にいうメンタル美人と部類に入るのだが、いまの動作にそれをしみじみと実感させられてしまう。そもそもな所、規制対象の書物を持つ男と普通に会話を交わす時点で、悪い意味ではなく、常人とは異なる感性の持ち主なのかもしれない。
 彼女は本来の目的を思い出したように、本探しへとうつった。とりあえず目の前に積まれた本を手に取り、中身にさっと目を通して品定めをする。そして気に入ったものがあれば左手に抱え込む。その動作を何度か繰り返して購入する本を撰出していた。
 自らも先ほどから手に取っていた本を再び開き、文面を読めば、既に読破済みの作品だった。しかしより深く味読するのも悪くないだろう。二人が本に意識を集中させているとき、満足が行くまで決して口を開かないというのが今までの習慣であったが、何を思ったのか彼女はこちらに視線を向け僕の鼓膜を震わせた。

「そういえばこの間...職業の適性判定が出たんです。」
「へえ。それで?」

 答えをせかすが言葉の一つ一つが喉につっかえるように、ほんの少し顔を顰める彼女は、心なしか苦しそうに見えた。台詞と台詞に入る間はこれから告白される出来事の重要性を示唆しているようで、こちらも落ち着かない気分にさせられる。口がよく回る彼女らしくないつっかえ方であった。

「比較的良いポイントをもらえて、官公庁もいくつか適性が出ました。色々と考えた結果......公安局に勤めようかと思います。」
「それは僕に報告すべき事柄なのかな?」
「わかっているのに聞かないで下さい。意地悪です。」
「そんな顔をしないで欲しいな。用は公安局の刑事が規制対象の書物を読むことなどできないと。そう言いたいんだね。」
「はい。ですからここを訪れるのも今日が最後になるかと思います。」

 本を抱えたまま俯く彼女は、惜別の言葉をかけてほしいと言わんばかりに落ち込んだ様子だった。しかし生憎そんな言葉の持ち合わせは無い。

「でも正直を言えばかなり迷っているところなんです。監視官は任期を終了すれば随分と良い役職に就けると聞きますが、殉職や執行官堕ちする方も多いと。」
「君はそのリスクを払って何を得たいのかな?地位、権力、それとも資金か。」
「未知をこの目で見てみたいです。就職動機にしては...少し馬鹿げているかもしれませんが。」
「見て、それから?」
「私のできることをやり遂げていきたいです。」

 そう断言する彼女に嘘偽りの影は一切見当たらず、ただ純粋に未来だけを見つめていた。まさにシュビラに飼いならされてきた善良な市民。今まで特別視してきた人間が一気に愚者へ成り下がった瞬間に、一瞬軽蔑の目を向けるが、それに気がついてもなお彼女はぶれなかった。余りに無謀すぎる夢を抱いた彼女が見たいのは恐らく、綺麗な世界。自分に感動を与えてくれる仕事の喜びや、善人ごっこ。

「"どんな方法で世界を知ろうと、明と暗の両面があるという事実は変わらない。"」

 彼女はその言葉の真の意味を理解し、黙りこくった。ゲーテの言葉の意味とこれから告げられる内容を承知しているかのように。

「君は今まで暗闇を認識しながらも、無い物として扱ってきた。いくら新たな職場で刺激を与えられたとしても、その未知の中に君が今欲している美しい景色は存在していない。美しい部分だけをすくって知り尽くした君が知らない事といえば、今まで避けてきた美しくない場所だけだ。そんな場所を見て君が得られるものは本当にあるのかな?」
「確かに私は好きな物だけを見て、綺麗な物だけを周囲に置いて生活をしてきました。それが現代社会の実状です。それを認めたうえで言わせてください。」

 読唇術というものがこの世には存在しており、精密機器を使わずとも相手の心境を読み取ることのできる。その中に目の動きを観察するというものがあるが、そんな特殊な物を使わずとも、今の彼女からは強い意志が読み取れた。目は口ほどに物を言う、とはまさにこのことか。

「美しい物だけを見てきた私が前に進むには、それ以外を知るしか方法は無いんです。いつまでも立ち止まっているのは嫌ですから。」

 美しい物を熟知しているから、それ以外を知っても意味がないなんて悲しい。美しさしか知らないからこそ、それ以外を知るのだと。彼女はそう言い切った。まさに逆転の発想ですね、なんてはにかみながら。
 
「って相談しておきながら、自分で答えを出してしまいました。」
「それは良かった。」

 なんて言葉もやはり彼女は疑おうとしなかった。そういった面でも彼女は公安局の人間に向いているのかもしれない。
 そして彼女は居なくなるのだろう。こういった会話を交わす時間ももう訪れなくなる。もし再度顔を合わす機会があるとすれば、それは―――彼女がドミネーターをこちらに向けるときだ。深淵をみつめた時彼女はどのような反応を示すのだろう。果たして僕に殺意を向けることが出来るだろうか。
 彼女は猟奇的な殺戮を好むわけではなくとも、御堂将剛や王陵璃華子といった駒たちに匹敵するほどに探求心を掻き立てられる人物だ。野放しにしてシュビラに横取りされてしまうのは、少し癪な気もする。

「"足かせをはめられた哀れな囚人のように手元からほんの少しまでは離してやるけれどすぐに絹の細紐で引き戻す。大好きだから、自由に飛んで行ってほしくない"」
「"あなたの小鳥になりたい。"」
「"そうしてあげたい。でも可愛がり過ぎて殺してしまうかもしれない。"」

 先ほどから手にしている本を音読すれば、彼女も合わせて台詞を言った。シェイクスピアのロミオとジュリエット。随分に有名な話だ。

「この場合で使用するという事は、恋愛感情が含まれているということでよろしいんですか?」
「それはどうだろうね。」
「求愛と受け取っても?」
「別れを惜しむ言葉という読み取り方もあると思うけど。」
「ちょっと嬉しかったので前者として、有りがたく受け取らせてもらいます。勿論殺されたくなんて無いですけれど。」
「保証はできないな。」
「また、御冗談を。」

 この手に収めてもし愛着が湧いてしまったら、彼女の身の安全は約束できない。それでも絹の細紐を外して、空へはばたかせてしまうのは気に食わなかった。さて、これからどうしようか。



彼女のせなかにはつばさがある

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