第1回 | ナノ
 色とりどりの缶が並べられたその中でブラックコーヒーのボタンを押すと、がたがたという音を鳴らして自販機から二つ分の缶が吐き出される。ひやりとした感触を手に感じながら一つの缶を狡噛さんに向けて放り投げれば、何でもないようにすんなりと受け止めていた。ちょっと力を入れて投げた筈なんだけど、これが反射神経の違いってやつ?そんなことを考えながらプルタブを引っ張り、軽快な音を立てて開けた穴に口を付ける。苦味だけの眼が醒めるような味が喉に染み渡っていった。
「今回の事件、中々大変だったらしいですね」
「…ああ、まあ無事解決はしたがな。思っていたより時間掛かっちまった」
「一系じゃなければもっと時間かけてたと思いますよ」
 わたしのその言葉に、同じくコーヒーを流し込んでいた狡噛さんの動きが止まる。
「随分と過大評価するな」
「そうですか?でも実際、一系って他の課より行動も早いと思いますけど。ほら、狡噛さんもいますし」
 半分にまで減ったコーヒーの缶を手持ち無沙汰に弄りながら答える。自分でも恥ずかしいことを言っているとはわかっていたので相手には目を合わせずにいた。監視官の頃より雰囲気が刺々しく、荒れたように感じていた今もこの場では不思議と穏やかな空気が流れている。ほんの僅かではあるが、ちょっとした時間にこうして狡噛さんと話せる時間がわたしはとても好きだ。しんとした、人一人いない廊下にはよく声が響く。狡噛さんの低く少し掠れた声がすんなりと耳に入るので、話をするときはいつも此処だった。
「とっつぁんの方が感も働くしベテランだけどな。年の功ってやつか」
 わたしの褒め言葉にふと密か笑った狡噛さんの顔が見える。今ではあまり見ることが出来ない柔らかな表情だったので、自然とわたしの頬も緩んだ。そういう顔を見る度、ああやっぱり好きだなあという甘やかな痛みが胸を走る。狡噛さんのことが監視官の頃から好きで、それは彼が執行官になってもずっと変わらない。只執行官になってから初めて会えたときは変わってしまった雰囲気に驚いていたけれど、それだけで自分の気持ちは吃驚する程今までと変わらなかった。何より、監視官の頃から続いていたこの時間を狡噛さんは今も大切にしてくれるから、それだけで愛おしいと思う気持ちが込み上げてくるぐらいだ。だけどわたしに募る気持ちを伝えるつもりは最初からなかった。公安局広域重要指定事件一〇二、基標本事件が起きると伝えるべきでないと益々そう思うようになった。佐々山さんが標本事件の被害者になり、狡噛さんが必死に手がかりを掴もうともがき、サイコパスがどんどん濁っていくのを傍目に見てから、わたしは溢れんばかりの胸の内に蓋をしようと自ら選んで――否、夢を見なかった訳ではない。いつか狡噛さんとそういう関係になれたらって思う時もあった。でもわたしは分析官で彼は執行官で、立場も違うし狡噛さんがわたしと同じように想ってくれてると思う程自惚れてはいない。そもそも狡噛さんはそんなことよりも標本事件に固執している。目の当たりにしてきたのはわたしだった。
 だから、この時だけでいいとわたしはどろりとした沈んだ執着の言葉を飲み込む。
「わたしは、狡噛さんのことずっと前から尊敬してますよ」
「…」
「ちょっと、何か言ってください」
 飛び出しかけた気持ちを誤魔化して笑うと、狡噛さんは珍しく呆気にとられた表情をしていた。元監視官と言えど、執行官に尊敬なんて言葉を使う人などいないので驚くのも無理はないが。わたしが声をかけると彼の人は我に返ったようにその表情を隠して胸ポケットに入っていた煙草を手に取り始めた。「みょうじは変わらないな」ライターの火が煙草の先を炙る。片手で缶を持ち直し、狡噛さんは煙を吐く煙草を一気に吸い込んだ。
「俺が執行官になっても」
「…狡噛さんは狡噛さんじゃないですか」
「ああ、いや、そうだな」
 煙草をくわえたまま狡噛さんはスーツのポケットに手をやり、携帯灰皿を取り出した。それをわたしは目で追いながらすっかり少なくなってしまったコーヒーをちびちびと啜る。
「人を人として見る、アンタのそういう所を俺は気に入っている」
「…」
「俺には無いものだ」
 一つ自嘲の笑みを零した狡噛さんは灰皿にぎゅっと煙草を押し付けた。ゆらゆらと燻らせる煙のそれが、限られた残量のようでわたしはそっと目を反らす。そうやっていつまでも見えない振りが出来たならどれだけ良かったことか。それは狡噛さんだからだよ、とわたしは口に出すことが出来なかった。自分の好きな人だから特別視するし、潜在犯落ちもあの頃はもう時間の問題だと言われていたぐらいだから、構えておくことが出来ただけなのに。わたしのそれを長所であり短所でもあり、美点だと笑う狡噛さんを目の前にしてはそんな反論が飛び出そうになる。
「狡噛さん、わたしは」
 わたしは貴方の思っているようなきれいな人間じゃないですよ。そう言ったとして彼は宥めるように笑うのだろう。その大きな手を使って武骨で粗暴な手つきで、わたしの頭をぐしゃぐしゃに掻き乱すのだ。だとすればどうしたらいいのか、何が正解なのかわたしにはわからなかった。わたしを妙に潔白な人間にしたがる彼に、わたしは存外汚い人間ですよなんて言ったって通じはしない。このぐちゃぐちゃで心の奥底で溜まりきった気持ちを、いっそ吐き出してしまいたいと唸るわたしが、どうしてきれいなどと思えるのだろう。
 もうすぐこの一時は終わる。きっと彼は何もかも置き去りにしてマキシマを追いに行く。三年間費やしてまで肥やしてきた執念を晴らしにいくのだ。わかっていても引き止めるつもりはなかった。狡噛さんが決めたことに余計な口出しはしたくない。それもあるが、傷つき嘆く自分を予想したくなかったという理由もある。彼が信念を捻じ曲げてまでわたしの言葉に傾聴してくれる訳がない。なら彼がいなくなっても傷つくことのないように、その前に誰かを好きになって忘れればいいと、そんな卑怯で臆病なことを考えていた。でも結局諦めきれずに未だ狡噛さんのことを想っているなんて、本当に馬鹿すぎる。ここまで自分を馬鹿だと思ったことはない。今やってることは今までの自分を否定することなのに、どうしてこの場でわたしは狡噛さんに想いを告げているのだろう。
「わたしは、貴方のことが好きです」
 二本目の煙草を取り出した狡噛さんの視線が此方へ向く。彼が何かを言う前に、わたしはまくし立てるように言葉を繋いだ。
「狡噛さんが潜在犯落ちして執行官になっても気持ちは変わらりませんでした。貴方が美点だというそれも単に貴方を特別視してるからで。だからと言って気持ちに応えてなんて言いません、貴方の邪魔をしたくないですし」
 頭の中はこんがらがっているのに説明じみた言葉がすらすらと口を突いて出てくるのは、とても変な感覚がした。ちりちりとした視線が旋毛を焼け付くのを感じながら、わたしは必死に狡噛さんを見ないようにして俯く。伝えるつもりなどなかった。ずっとしまい込んで自分の中で風化させてしまえば良かったのに、近く狡噛さんと会えなくなるかもしれないという予感がちらついたせいで、言わなくていい事も言ってしまいそうになる。口ではそんなことを言っていても本心では違ったみたいだ。だってわたしは今、貴方を引き止めることの出来る言葉を探してる。
「だから何も言わないで、このまま聞こえなかった振りして貰えませんか」
 それからどうかこの場を去って。そうしたらわたしはみっともなく泣くことが出来る。言ってしまった後悔ばかりが思考をまとわりつき、視界が歪み始めてもここで泣くことは出来なかった。泣いたらきっと狡噛さんを困らせる。それで眉根を寄せて「すまなかった」とでも言うのだろう。我が儘なことだが、謝罪の言葉なんか聞きたくなかった。それなら聞こえなかった振りをしてくれた方がよっぽど良い。わたしは只逃げ道が欲しかったのだ。今はまだ彼の謝罪を受け止めるだけの余裕がないから。
「それは聞けない話だな」
 俯いたきりのわたしの視界に影が落ちる。驚きで反射的に顔を上げるとそのまま頭を引き寄せられて、額が狡噛さんの胸板にぶつかった。シャツに染み付いた煙草の匂いが鼻腔を擽り、思わず中身のなくなった缶を取り落としてしまう。静まり返った通路に缶が落ちた甲高い音が響くのを、どこかぼんやりとした思考が捉えていた。
「俺は、みょうじと一緒になることは出来ない。だが気持ちまでは無視出来なかった」
 聞き慣れた心地良い声が耳から浸みていくのとほぼ同時に、堪えてきたものが頬を伝い流れてスーツを汚していく。
「お前は聞こえなかった振りをしろと言った。だけど俺はそうしたくない、この意味がわかるか?」
 押しつけられていた手が離され、体温が離れるのすら惜しいと思った。わからぬよう涙を拭い視線を狡噛さんに合わせると、柔らかで少しだけ熱を持った目が返ってくる。
「…ひどい人ですね。わたしに諦めさせないつもりですか?狡噛さんの隣をわたしは歩けないとわかっていて、尚」
「ああそうだな、確かに酷い男だ、俺は」
 それに諦めさせるつもりはない、諦めなくていい。そう呟いた狡噛さんの表情は正に悪人面と呼ぶべきそれで、少しだけ笑ってしまう。わたしの頬に狡噛さんの冷えた指が触れるのを感じていれば、現金なことにさっきまで胸を締め付けていた後悔がすうと消え去っていく。頬に触る手が顎をさすり力に従って持ち上がる。狡噛さんの顔がゆっくり近づいてきても抵抗はしなかった。後で辛くなるのは自分だとわかっていても、今だけはそれを忘れて享受していたいと思ったから。

 ブラックコーヒーと狡噛さんの好きな煙草の苦みが只々咥内に広がる。縋りつくようにスーツの端を握れば、益々強く唇を押さえつけられたような気がした。

 その部屋の戸を開けた途端、慣れた煙草の匂いが肌を突き刺してきたのには思わず笑いそうになってしまった。ホロの使わない部屋の内装はいっそ寒々しい程に簡素なもので、一歩進むと至る所に事件資料や色々な書類が散らばっているのが目に入る。もう少しでこの散らかり様も綺麗さっぱりなくなるのだろう。ここに狡噛さんが居たという形跡を跡形無く消して、彼の好きだった煙草の残り香さえ消えて、いつしか新しい執行官がこの部屋に住み着くのだ。わたしは何を期待していたんだろうか。もう何処にもいない部屋の主を探したって意味はないのに。結局何も言わずふらりと消えてしまった狡噛さんに対して恨み言の一つぐらい吐きたくなるものの、それをぐっと飲み込んで備え付けてあったソファーに腰掛ける。
「わかっていたのに、何で」
 何で望んでしまったんだろう。狡噛さんの隣にいるわたしを、二人きりで過ごすそれを想像しても虚しさが残るだけ。それに抱き寄せてくれるのも口付けもたった一度、あのときだけで。それだけで夢を見てしまったなんて単純過ぎて笑えてしまう。どうしろって言うの。貴方に会えないのに、想いが通じ合っただけ辛くなるというのに欲張りになってしまった。よりにもよって狡噛さんと幸せになりたいと、そう思ってしまった。唇を噛み締めるわたしの視界の中で、伏せられた紙の切れ端を見つける。只の切れ端だと思いつつも、それが妙に気になってしまい灰皿の隣に置かれたそれを何気なく摘みとれば、わたしは暫くそこを動くことが出来なかった。

「なまえ、俺のことは忘れて、どうか幸せになってくれ」

 ありきたりな愛の言葉でも、謝罪でもない。それでも直筆で書いただろうその走り書きに、どうしようもない程込められた気持ちに気づいてしまった。わたしはそれをソファーから微動だにせず読み続け、彼の文字を何回も繰り返し目で追っていく。抱き締めてくれた力強い腕、唇が触れたときの温度、それらを幾度思い返しながら頭の中で一文字一文字なぞり続ける――ねえ狡噛さん、これでどうやって忘れられると言うの。諦めなくていいと言った癖に、何もかも捨て置いてしまった貴方のことが、それでも好きなのに。
 くしゃくしゃに歪んでしまった切れ端を見つめ、未だ残る煙草の匂いを吸い込みながら、わたしは声を上げて泣いていた。



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