第1回 | ナノ
規則正しいノックの音が聞こえた。「どうぞ」と短く返事をするとすぐさま扉は開き、そこから美しい顔を覗かせた男は私の姿を確認して、柔和な笑みを作り上げる。
彫刻のように繊細で隙のないそれに私も当たり障りない笑みを向け、私の向かいに腰かけた彼に紅茶を差し出した。ゆっくりとカップを持ち上げた彼は茶葉の香りを楽しむとようやく一口含む。

「やはりこの家の紅茶は美味しいね」
「茶葉だけはこだわってますから」
「叔母君が好きだったからかな」

この部屋に飾られている叔母の写真を見つめた槙島は微かに目を細めた。それがまるで、彼女を懐かしむような仕草に見え、胸がざわつく。話題を変えるためわざと音を響かせるようカップをテーブルに置けば、槙島は若干眉を寄せ私を見た。ようやくこちらに向いた視線に満足しながらさっそく槙島が私を訪ねてきた件について話しかける。

「どうでした?今回の人材は」
「ああ、まだ段階的にだがなかなか使えるかな」
「そうですか。不要ならばまた連絡してくださいね。槙島の頼みだったら最優先するので」
「すごい待遇だな」

槙島は大して面白くもなさそう なのに喉をクツクツ鳴らしてリアクションをとる。きっとそのほうが私が喜ぶと思ったのだろう。槙島の思った通り、私は彼がわざとそういう行動をとったとしても、面白いくらい騙される。頭の悪い女だと槙島はそれが面白くて笑っているのかもしれない。

「槙島は叔母が贔屓にしていたので特別です」
「へえ、それは嬉しいな」

だから、私のことも特別に扱って。とは口が裂けても言えなかった。槙島は簡潔に私が送った人材についての状況を説明し、これからどんなことが起こるのか推測という事実を話してくれた。
力を得た者は自分の中で燻っていた衝動に決して抗えない。知恵を身に付けたら最後、己の欲望のままあたりを血の海に染め上げるだろう。

「槙島の仕事をそばで見てみたいです」
「それはできない。君のサイコパスを汚したら亡くなった叔母君に祟られそうだ」
「それは遠回しに一緒にいたくないということですか?」
「そうは言っていないよ。ただ、そばに置くつもりはないというだけだ」

槙島の仕事について行きたい、そばにいたい、とお願いしても絶対に断られてしまう。一度だけ叔母がついて行ったらし いが、それを境に彼女はサイコパスが曇っていった。それとなにか関係があるのだろうか。
槙島の話を聞いて相槌を打っていると彼は「ところで」と話題をすり替えた。少しだけ机から腕をこちらに投げた槙島は琥珀色の美しい瞳で私を見つめる。いつみても息がつまるほどのその顔に私は目を奪われた。

「新しい人材を用意してほしいんだ」
「いつまでにですか?」
「そうだな。海外で腕のある人材がほしい。普段より時間がかかるだろうから君の都合に合わせよう」

槙島はたまにこうやって私ができない奴だとわざと匂わせるような言動をとる。私の叔母というコンプレックスを最大限利用されている気分だった。

「叔母なら、どれくらいで用意できるでしょうか」
「……さあ?彼女は気紛れだから」
「槙島が対価を支払わなければ動かない人でしたものね」
「彼女は強欲だったからね」

否定しない槙島にさらに苛立ちを覚えた。私たちは一線を引かなければならなかった。でないと私たちのサイコパスは彼の美しくも後ろ暗い思考によって汚されてしまう。だから、本来ならば槙島に好意を抱いてはいけなかったのだ。
叔 母は、槙島のパトロンだった。金だけはあるみょうじの家で叔母は未亡人として腫れ物のように扱われていた。そんなある日、叔母がお伽噺から具現化したような男をこの家に連れてきた。その男の不思議なカリスマ性に叔母はいつしか陶酔し、彼の不気味な策略を手助けするために投資を始めた。
叔母は暇潰しにたまに槙島と私を会わせた。歳もいくらか近いだろうから、と言われたが当時学生だった私には成人した槙島はかなり大人の男の人に思えたものだ。

それからも叔母は私が槙島に懐いていたことを知っていたからか、度々私を呼び出した。家の者が彼女はあの男に投資をしている、と噂をしていたので私もそれくらいは知っていた。
しかし彼女は私に見せびらかすよう、槙島と戯れる。槙島もそれを完全に受け入れており、むしろ叔母の女という感覚をあえて目覚めさせたように思う。

「槙島が誘惑したせいでしょう」
「いいや、全て彼女からだよ。僕はなにも」
「そうやってあなたが被害者面をするんですね」

皮肉のように吐き捨てると槙島はただ微笑を浮かべたままだった。否定も肯定もしないその口許とは裏腹にその眼差しだけは私 のことを責めているみたいで。つい視線を反らしてしまう。

「なまえは叔母君を嫌っていたのかい?」
「いいえ」
「じゃあ……憎んでいた?」

槙島の、試すような視線を受け、言葉がつまる。ここで何を言えば正解なのか。槙島からしたら小娘の私にはまったく分からなかった。唇を噛み締めながら、黙って頷くと槙島はふふっと笑った気がする。

「"憎しみは積極的な不満で、嫉妬は消極的な不満である。したがって、嫉妬がすぐに憎しみに変わっても怪しむに足りない"」
「え?」
「君は叔母君に嫉妬していたのかな?」

子供をからかうように笑う槙島はどこか楽しそうに私を見ていた。その笑顔で私は彼らに全て見透かされていたことを知る。槙島に"女"として扱われていた叔母に嫉妬という感情をもて余していた私は彼女が病気でなくなってから、槙島に私が次のパトロンであると宣言した。

「ゲーテの言葉だ。君は僕を繋ぎ止めて自尊心を保っていたにすぎない」
「そうかもしれません」
「だけど君は僕が叔母君のように"女"として触れないことを不満に感じ始め、彼女に嫉妬したってところか な」
「人を、よく見てますね」

槙島の推測は正しい。一線を引かなければならなかったというのは本当だけど、私のことをいつまでたっても子供扱いする槙島をどうにかして割りきらないといけないから。どこからやってきたのかも分からない男に心酔した叔母を馬鹿にして、憎んでいなければ私が私ではなくなりそうだったから。
私は叔母に嫉妬し、槙島に焦がれていた。槙島も気づいていながら知らないふりをし続けるなんて狡い男だと思う。

もう、隠すものはなにもないのだろう。彼に対する好意そのものが槙島にバレてしまった。今さら何をしても槙島にとって滑稽に映るのではないか。そう思うと、今まで無駄に気をはっていたことが急に馬鹿らしくなった。私は彼を好いていたし、叔母に嫉妬していた。別に恥じるようなことはなにひとつとしてない。

「槙島」
「なんだい?」
「私は今まで無償で貴方を支援してきました。それが普通であると思っていますし、見返りを求めた叔母がおかしいことも分かっています」

槙島はただ私の声に耳を傾けていた。そんな彼の白く滑らかな手に私は指を這わせる。叔母が、よくやっていたことを見よう見まねでやってみることでしか私は色欲のことなど分からなかった。槙島は私の拙い動きを楽しむかのように私の指の動きを辿っては、私を舐めるように見つめる。
初めて浴びせられた槙島の色香が漂う眼差しに、甘い目眩がしながらも私は槙島を求めることをやめられない。

「私を槙島の女にしてください」

私の要求を耳にして、槙島は真意を探るような視線を送ってきた。私はさらに畳み掛けるため、槙島と距離をつめる。

「それはなまえ。君を手籠めにしろということかな?」
「っ……」

槙島も子供みたいな私の態度にしびれを切らしたのかからかうみたいに唇を寄せてきた。異性と初めて交わしたくちづけは本物のアルコールのように、芯から痺れていく。想像通り、冷たい槙島の唇は一度くちづけをしてから、傷跡を残すように私の下唇を食む。

「……槙島のそばに置いてほしいという意味ですよ」
「困ったな。叔母君も、なまえも強情だ」

槙島は本当に困った顔をみせた。きっとそれも演技だ。しかし、叔母も槙島のそばにいきたいと願ったのか。やはり、血は争えないらしい。 先程、槙島は私を近くに置くつもりはないと私に告げたし、私もそれを聞いていた。しかし、諦めきれないのだ。たとえ、彼の深淵に触れることで私が善良なサイコパスの持ち主でなくなったとしても、一度、彼に尽くしてしまえばすべてを捧げたくなってしまう。それが槙島という男だった。

「女は嫉妬の対象が消えてもなお、思い出に妬くことをするんです。どうか私を槙島の特別にしてください」

叔母よりも上でありたい。そう思うのは女の性だ。それを利用してこれからも私に多額の融資を頼んでもいい。だから、私は槙島に必要とされたい。
懇願するように槙島に私から唇を近づければ、誘い込むようにうっすらと舌が覗く。まるで知恵の実を食べるように誘惑してくる蛇のようだ。キスをして、抱き締めて好きだと言えば槙島はただ黙ってキスをしてくれた。彼のひんやりとした唇と、私の上気していく頬のように私たちは真逆の存在なのだろうか。だから、そばにはいられないというのか。
難しいことは私には理解できない。ただ、槙島が好きという気持ちだけで叔母の代わりにパトロンになり、突き進む私は彼からすれば滑稽だろう。

「まいったな。見た目に反して強情すぎた。扱いづらいな」
「そんな私は嫌いですか?」
「いいや。案外君の叔母君に対抗しようとする姿は嫌いじゃない」

ゆるゆると首を横にふってくれた槙島。私はそれだけで思考が溶かされたみたいになってしまう。

「じゃあ、好きですか?」
「それはどうだろう。これからの働き次第ではないかい?」

不敵に笑った槙島は服にでも隠していたのか、剃刀を私の首に持ってきた。初めて味わう刃物の冷たく残酷な感覚に身震いをした。きっと、槙島の特別になるには彼の血生臭いところまで知らなきゃいけない。柔和な笑みを携える彫刻の中身はいったい何で作られているのか。私は以前よりももっと興味をそそられた。

「ねえ、槙島。実は私、ダージリンよりウバの方が好きなんです。今度一緒にどうですか?」

叔母の紅茶をおいしいと飲むことにも妬けるだなんて本当に子供のようだ。だけど、槙島が少しでも本性を私に見せてくれたのなら、私も私を見せるべきだと思ったのだ。自分を曝け出すことで、槙島のそばにいることが許されるのなら、私は喜んでそうする。

「ミルクを用意してくれるなら、ぜひ」

槙島はそう言って、私の首にたてていた剃刀を懐にしまった。槙島の返答に満足した私はようやく彼から手を離した。今度彼が私の元を訪れたときは、とっておきの茶葉を用意しよう。そして、私が上玉のパトロンだという仕事ぶりを見せてやる。
私がもう子供ではないことを、槙島に分からせればそばにいたいと伝えても困ったような作り笑いを見なくても済むのだろうか。いいや、きっと槙島は私が何を求めても困った顔を寄越すのだろう。槙島は狡い男なのだ。


そばにいたいは罪になりますか

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