第1回 | ナノ
 遠くのほうで、わたしを呼ぶ声がする。ひどく不安定なところに立っている。孤独だった。
 やがて身体は黄金の景色の中で浮遊して、たくさんの稲穂の上で揺らめいた。わたしの肩をやさしく抱くその腕から少しずつ辿っていくと、すごく髪が伸びて、強く吹きつけてる風に眉を寄せた伸元が、かなしげに微笑んでいる。


 目が覚め、涙を流していることに気が付いて、ひとりで空笑いをしてしまった。

「何なんだ、それは」
 すこし汗ばんだ伸元の後ろ髪を指先ですくと、頬に唇を押し当てられた。
「昨日、見たの。金世界で、一人だったけど、寂しくなかった。ぷかぷか浮いていたらね、伸元が来たの」
「そうか」 冷たい指先がわたしの鎖骨をなぞる。そのとたん、まるで心臓を掴まれたような、暴力的な切なさに襲われる。
「…名前、呼んでほしい」
 彼の軽く頬をつねる。怒られるかと思っていたら、伸元は目を細めた。
「なまえ」
 嬉しくて、自然とくちがゆるんでしまう。そこにまた、熱くなった唇が触れた。やわらかいキスを受け入れながら薄く目を開けると、伸元のひとみにわたしがうつりこんでいるのを見る。

 金曜の夜、決まってわたしたちは外で食事を摂る。
 二人の仕事が重なるときは、適当な値段のするワインを古いお店から調達して、どちらかのマンションへ帰る。わたしが一方的に会社の愚痴をこぼしつつ、たっぷりと飲んだところで、そのままベッドへ潜り込む。
 今夜は後者だった。ベッドから身を乗り出してホログラムで淡く映し出されたデータを見やると、すでに土曜になったということを示していた。もうすっかり汗だくになって抱き合ったから、早急にシャワーを浴びて眠りたいところなのに、あつくなった互いの身体はぴったりくっついて離れなかった。

「なまえの職場に行ってみたい」
唐突に伸元が呟く。「こちらは殺伐とし過ぎている」
 たしかに。
 前に一度だけ紹介された伸元の同僚を思い浮かべて、笑いそうになってしまった。
 男ばかりの職場だと聞いている。
 彼と同じくらいの高身長で、髪は短髪で黒く、きっちりとスーツを着こなしていた。ただ雰囲気は堅く、刑事という感じのする目の男のひと。
 にやけた顔がばれてしまったのか、伸元は眉を寄せながらわたしの額を弾いた。
「何を考えている?」
「んー?別に」
「気になるだろう」
「だって」
「だっても何もない」ジトッとした目で見られて、わたしはシーツを顔の半分まで引き上げた。
「職場、来てくれてもいいけどさ?一般の人、入れる図書館なんだから。でも…」
「でも?」
 普段本なんか読まないくせに、とからかうと、眼鏡をはずした童顔はあからさまにむっとした表情をする。
「俺だって最近、読んだよ。いろいろ」ふてくされたのか、腕をついてわたしを見下ろすようした。
「電子書籍ででしょ?」
「まぁ、そうだが」
「古本はいいにおいがするし、読んでいるって感じがするのに」
 目を閉じると、真夜中、父の帰りを待ちながら、活字を追う自分がいる。本の世界が好きだった。可哀想な子だと言われても、幸福だと思えた。 それだけで世界は満ち足りたものだと思っていた。
「小さい頃、よく読んだ。友達みたいだったな」
 わたしの言葉に、伸元は甘えるようにわたしの肩に顔をうずめた。それに応えるように伸元の手を握る。
今日は、やたら素直な二人。
「伸元が仕事してるところも見たいよ、前に会ったあの人にも会いたいし」
「狡噛のことか?あいつは元気だよ。元気すぎるくらいだな。お前に会いたいと言っていたような気がする」
「本当?わたしもちゃんと会ってみたいな」
 ちらり、と彼が視線を寄越す。
「あ、でも忙しいかぁ…」
 伸元が、すこし顔をあげて笑った。息が首筋に当たってこそばゆい。「そういう意味じゃない」
つづけて思い出したのか、そういえば、と片方の眉をぴくりとさせた。
「部下として、新しく新人が来た。なかなか骨のいるやつで、手を焼いている」
「あなたが手を焼くなんて」
「狡噛もだ。あいつは面白がってる節があるが… 全く」
 ぶつぶつと、カンシカンとしてどう、とか続ける。わたしには仕事の話はあまりしないから、たぶん役職か何かのことなのだと思う。
「コウガミさん、前に会ったとき、あなたが頑固すぎるって嘆いてたよね」
「…そんなことはもう忘れた」
 冷静に言うのがおかしくて笑っていると、おおきな身体がわたしの身体の上に覆い被さってくる。
「重いよ、ばか」
「なまえ」
「はぁい?」
「愛してる」
「んー?なに?聞こえない」
 切れ長のまぶたが、わたしの心を捉えて離さない。背中に手を差し込まれて、引き寄せられるようにキスをする。
「…二度も言わせるな。好きだ」
 そばで囁きあって、音が鳴るほど抱き締めあえば、昨晩みた夢の続きのようで、なぜだか涙が出そうになって慌てる。
 二人でいる限り、孤独は必要ない。わたしたちは、触れあうことで生まれる、あたたかな愛を知ったのだから。
 いつまでも、幸せを与えあえる仲でありたいと思うよ。



孤独であるからこそ幸福だった

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