第1回 | ナノ
ここはどこだ。
くらくて、冷たい。
なにも見えない。いくらあたりを見回してど暗闇ばかりで一条の光さえさしていない。
冷たい水がいくえにも私の手足に絡みついて、上へ上がることもかなわない。息を止めたままでいるのはもう限界だった。苦しい。
ふいに私の頭上を一匹の魚が通り過ぎた。私は「魚」を実際には見たことがなかったが、あれは魚だと思った。めくらの魚だ。体は白く、なめらかなに泳ぐ魚――。
ああと感歎する。
ようやく思い至った――ここは深海だ。
体の力を抜くと、待ってましたとばかりに水たちがより奥底へといざなう。口から漏れた息が気泡になって海面目指して上がっていく。それに向かって手を伸ばす――何も掴めずに空振った。



ゴーグルを付けると#名前#はロクな柔軟もしないままプールに飛び込んだ。ハデな音と水飛沫を立てて飛び込んだなまえを見て、またかと宜野座は眉を顰めた。何度注意しても一向に直らない。怪我をしたら困るから柔軟をしっかりやれと、一体何度言えばいいのだろう。なまえがプールから上がったら、もう一度よく言い聞かせよう。宜野座はそう決めると、ズレたメガネを指で直して近くのベンチに腰掛けた。
ここは公安局のすぐ近くにあるスポーツ施設だ。週はじめの早朝ということもあって、人はなまえと宜野座以外には誰もいない。閑散とした室内に、なまえが水をかく音ばかりが響いている。
宜野座はクリアファイルからコピーした始末書を取り出すと、改めて読み始めた。内容は先日の一件についての常守監視官からの始末書だ。 執行官のひとりは「とんでもない新人が来たな」と言っていたが、本当にそうだと思う。彼女は、監視官として異質だ。少なくとも、宜野座が今まで知り合った監視官の誰とも違う――いや、少し狡噛に似ているかもしれない。と、そこまで考えて宜野座は頭を振って考えを追い出す。そんなことはどうでもいい。重要なのは彼女の判断のその行いについてだ。今回は結果として被害者のサイコパスは好転したが、いつもそうとは限らない。監視官は結果が良ければそれでよしなんて仕事ではない。今回の件について宜野座は納得していなかった。
はぁ、とため息をついて宜野座はベンチにもたれかかった。目を閉じて耳を澄ますと、水の跳ねる音だけが聞こえる。その音を聞いているだけで、荒れていた心の内が凪いで穏やかな心地になっていくのを感じた。
不意に手首のデバイスが鳴って宜野座はハッとした。急いで出ると、事件が起きたので来て欲しいとのことだった。どうにも常守監視官だけでは手に負えない事件が起きたらしい。
「わかった、すぐに行く」
それだけ言って、デバイスの通信を切った。まだ泳いでいるなまえに、向かって大きめの声で呼びかけた。ちょうど壁まで泳ぎ終えたなまえは、顔を上げてゴーグルを外すと、不思議そうな顔で宜野座を見上げた。
「事件だ。5分で支度しろ」
事件、と言う言葉が聞こえたあたりでなまえは不満そうに口をへの字に曲げた。それから宜野座の言葉に「はぁい」と少し間抜けだ声で返事をしてプールから上がった。




二人が現場に着くと、目ざとく見つけた縢が「あれれ〜?二人で来たの?もしかしてデートだった?」などと茶化す。宜野座の言葉はそれを黙殺すると、常守に状況の説明を求めた。常守は宜野座となまえ――それも普段から監視官と執行官と一線を引いている宜野座が、その執行官の#名前#と二人で現場に(しかも同じ車で、なまえの髪の毛は濡れている)ことに目を白黒させながらも事件の概要を説明した。
「――以上が事件の概要です。依然として人質とともに建物の中に潜んでいるものと思われます」
「監視カメラはどうした?」
「それが映ってないんです。カメラ自体大した数は設置されてなくて、死角は多数あります」
宜野座は舌打ちした。
「三つに分かれよう。六合塚は念のため監視カメラ見ててくれ。縢と狡噛は俺と、征陸となまえは常守と行け」
「えぇー俺なまえちゃんとが良かったなー」
「バカ言ってないで行くぞ」
狡噛が常守の頭を撫でてからドミネーターを手にとって宜野座たちと行ってしまった。常守は征陸となまえの顔を見て、心の中で嘘でしょ、と呟いた。




宜野座たちと別れた常守はなまえ達と潜在犯を追っていた。配属初日とどこか似たような状況に常守は緊張していた。もうあんなことがあるとはあるとは思わないが(するつもりもないのだし)、それに今日は珍しくなまえが一緒なのも常守を緊張させていた。
もう配属されてからひと月あまりは立つのだが、常守は未だになまえの正体を掴めずにいた。一緒に仕事をしていてもあまり喋らないし、無表情でいることが多いから何を考えているかわからない。執行官たち各人のデスクはそれぞれ個性的なのに彼女のデスクは必要最低限のものしかない。(いつも淡々としているからとっつきにくいし......)せっかく同じ職場なのだから、仲良く、とまでは行かなくてもせめて普通に話せるようになりたいと常守は思っている。後ろを歩くなまえをこっそりと伺い見ると、目が合った。常守が微笑みかけると、すぐに逸らされてしまったのだけど。
それとなく後ろの様子を伺っていた征陸は、目に見えて常守が落ち込んだのを見て苦笑した。一件すると常守ばかりが彼女を気にかけているようだが、実際のところは二人して距離をはかりあぐねているのだから、見ていて微笑ましい。
一室一室を、確認しながら進んでいく。
この施設内は監視カメラが少なく(そもそも監視カメラ自体が形骸化しつつある)、死角は沢山ある。犯人はどこに潜んでいるのか、人質は無事なのか――。既に何人か殺傷した犯人だ。人質を殺すなんてことはないだろうが、多少の傷は負っているかもしれない。そうでなくとも、サイコパスが取り返しのつかないほどに悪化してしまっているかもしれない。
不意になまえがぴたりと足を止めた。
「……監視官、こっちから声がした」
「声?」
常守は耳を澄ませてみたがなにも聞こえない。首を傾げると、征陸が「なまえがいうなら確かだ」、行こうと言った。常守はしばししの逡巡ののちに頷いた。
本音を言えば順番通りにきっちり回りたかったが、征陸の言となまえの目が嘘ついているようには見えなかった。それで二人にかけてみることにしたのだ。
しばらく歩いて行くとなまえの言ったように声と何か物音が聞こえ始めた。犯人にバレないようにそぅっと近づいていく。
物音がしたのは薬品室だった。
ガラス窓から見える潜在犯は何かを探しているようだった。ない、ない!と喚きながら薬品棚の中を乱暴に探す。
人質らしい白衣を着た女の人は頭を抱えて座り込んでいた。大分危ないのかもしれない。常守が一度作戦を建てようとなまえに声をかけようとしたとたん、なまえが駆け出した。
「え?え?!ちょっと!」
開いたままのドアから入って、棚に隠れながら様子を伺う。一体何を探しているのか――。幸い潜在犯は常守が上げた声には気づかないで棚の中を探しているなまえがドミネーターの照準を潜在犯に合わせると、大分数値をオーバーしていた。無機質な音声とともにエリミネーターに切り替わった。一度目をつむって深呼吸する。潜在犯の近くでうずくまっていた人質と目が合った。口が開く。人質の悲鳴よりも先にトリガーを引いた。



血まみれのまま車に乗り込むと、縢が口笛を吹いて茶化した。返すのも面倒ですぐに座り込んだ。疲れた。仕事は嫌いだ。面倒だし、汚れることもあるし、何より事件が起きるとプールに行けなくなってしまう。はぁ、とため息をつくと、征陸さんがポンポンと頭を撫でてくれた。
嫌いなものはたくさんある。まずは仕事が嫌いだし、ほかには更生所とそこに務める人間も嫌いだ。ドミネーターの無機質な指向性音声、エリミネーター、タバコの臭い、死体。海も嫌いだった。
好きなのはプールと寝ること。それから宜野座伸元という人間。
トラックの隅っこで膝を抱えて小さくなって考える。ここは深い深い海の底で、私は一人ぼっちでここにいる。寒くてくらい。でもここに宜野座が来ると暖かくなる。二人だと海の底も怖くない。宜野座といる深海は、とても優しい。



優しい深海の温度

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