第1回 | ナノ
米の匂いがする。正確に言えば炊きあがる直前、炊飯器から漏れた微かに甘い蒸気の匂いだ。収穫したばかりの新米を使っているせいで、今日のそれは特に鼻をくすぐる。こんなときの献立は肉がいいか、魚がいいか。肉なら合い挽き肉でハンバーグ、魚なら脂の乗った秋刀魚もいい。ただし、俺の手が今握りしめているのは、包丁でも菜箸でもなく携帯型のゲーム機だ。大して面白くもないクリア済のソフトを入れて、なんとなく操作する。単純な格闘ゲームなので、頭を使わなくても指先が攻略方法を覚えていた。どうやら俺は、無心になれる物事が好きらしい。チェスにゲーム、そして料理。何かに没頭する行為は現実を、潜在犯かつ執行官という俺の厄介な立ち位置さえ忘れさせてくれる。やがて炊飯器が炊きあがりを知らせる音を鳴らし、シンクで食器を洗っていたなまえが顔を上げた。仕事帰りでくたびれたワイシャツの腕をまくり、俺のエプロンを身につけ、さっきから計量カップを睨んでいる。きっとレシピ通りの手水用塩水を作っているに違いない。水百ミリリットルに対して、塩十グラム。とはいえ、味覚は状態で変わる。仕事を終えて疲れていればしょっぱいものを食べたくなるし、あまり動かなかった日は薄めの味付けにしてもいい。要はバランスだと思いつつ、慎重な眼差しを盗み見る。あの目に映る食材を、こっそりと羨みながら。



なまえは一係に配属された執行官だ。初めてできた後輩に対して、どう接したらいいのか。誰かの面倒を見るなんて今まで想像もしていなかった俺に、なまえは緊張混じりの顔で話しかけてきた。

『縢さんは料理が得意なんですか?』
『あー…まあ』

曖昧な返事をしたのは、丁寧な敬語がこそばゆかったからだ。

『食べてみたいです、縢さんが作った料理』

おずおずとそう言ったなまえを俺の部屋に招いて、食事を振る舞う。思い返してみれば、それが始まりだった。熟したトマトを使って、茄子、玉葱、パプリカと黒オリーブを入れたラタトゥイユ。挽き立てのブラックペッパーと新鮮なバジルが決め手となる若鶏のハーブ焼き。生ハムを添えたフルーツサラダに、ソースが自慢の特製タコス。本物の酒は飲んだことがないというのでアルコール度数の低い白ワインを選んだ、完璧なディナー。時間も手間もかかったが、なまえの『おいしい』という一言で、今までの苦労なんて全て吹っ飛んでしまった。なまえの屈託ない笑顔を見れただけで、どうしてこんなに嬉しくなるのかという疑問も後回しにしてしまうほど。



あれから数ヶ月、シフトが重なれば仕事でも顔を合わせたし、休みが合えば天然の食材を使った食事をした。その際、足手まといにならないよう執行官としての知識は多少なりと教えたが、料理の作り方は一切教えていない。普段のなまえは皿洗いを手伝う位で、料理をしたことはなかった。なのに、なまえはこうして一人でキッチンに立っている。これは結構衝撃的な話だ。遊び道具を奪われたなんて言ったら子供扱いされそうだが、最も近い表現はそれかもしれない。改めてなまえの手元を観察していると、炊飯器から熱々の白米を手に取るのが見えた。

『今日は一人で作りたいんだ』

いつのまにか敬語を使わなくなったなまえが奮闘しているのは、何てことのない只のおにぎりだ。海苔の代わりに高菜で白米を包むとか、俵型にしてあられをまぶしてみるとか、凝ったことはしていない。うまいおにぎりを作るコツ、小さな掌がほんのり赤くなる温度。具を真ん中に埋め、右手の腹と左手の親指の付け根で挟むように三角形を型どり、人差し指と中指で角を作る。このとき、炊きたての白米が熱いからといって無闇に力を入れたらいけない。一つの辺ができたら、回して次の辺を整える。同じ動作を三回繰り返せば、理論上はおにぎりの完成だ。しかしいくらプロセスが簡単でも、初めて作るものはなかなかうまくいかない。むしろ単純なレシピほど、素人とプロの間には大きな差ができる。現に、なまえが作ったおにぎりは形がやや不揃いだ。緊張で手に力が入ってしまったのか、おいしいおにぎり特有のふわっと握られた形になっていない。やがてリビングのテーブルにはおにぎりが並び、食べられるのを待っていた。

「できたよ」
「お疲れー。今、緑茶淹れるから」

なるべく軽い口調で労った俺は、すかさず熱い緑茶を用意する。元々一人でしか使わないつもりで買った急須は、ちょうど二杯分が一度に準備できるぎりぎりの大きさだ。テーブルには熱い緑茶とできたばかりのおにぎり、それらを挟んで俺とエプロンを外したなまえが座っている。豪勢な食事には程遠くても、こうして誰かが俺をもてなしてくれるなんて、今まで考えたこともなかった。

「具は?」
「食べてからのお楽しみ」
「へぇ…。それにしても、あのギノさんがよく買い出しに付き合ってくれたね」
「監視官の職務だから、って言ってた」
「天然の食材ってさ、鮮度を見分けるの難しいじゃん?俺なんかこの前…」
「あの」

なんとなく手をつけるのが躊躇われた小ぶりのおにぎりを前に喋っていると、なまえは唐突に会話を遮った。

「料理なんて初めてだし、おいしくないかもしれないけど…秀星のために作ったから」

だから食べてほしいと先細りになるなまえの声は、確かにそう訴えた。名前で呼び合う仲になってからしばらく経つし、テーブルには色とりどりの食事があるわけでもない。それでも込み上げてくる感情を、何と名付けたらいいのだろう。

「…じゃ、いただきます」

濃い目の緑茶を一口すすり、おにぎりを口へと運ぶ。巻かれた岩のりの香ばしさと一緒に、口の中でほろりと白米が崩れる。そのまま咀嚼していると、白米の甘みが次第に増した。何も言わずに二口目を頬張ると、香ばしい焼き鮭の旨みが広がる。勿論、改善点もいくつかあった。米を炊く際の水はもう少し減らしてもいいかもしれないとか、鮭に火が通りすぎて身が固くなってしまったとか。けれど、それより先に言いたいことがある。このおにぎりを一粒残らず完食したら。

「味はどう?」
「ん」

返事もロクにしないまま食べ終えると、なまえは戸惑った目で俺を見た。

「なまえ」
「…もしかして、おいしくなかった?」
「いーや、うまかったよ。なまえが俺のために作ってくれたのも、すげー嬉しかった」

立ち上がった俺は、座ったままのなまえの背後へ回り込む。正面から向き合う勇気はまだなくても、後ろ姿は俺のものだ。

「でもさ、俺となまえならもっとうまいおにぎりが作れると思わねぇ?」
「もっと?」
「コウちゃんやとっつぁんやクニっちにセンセー、ギノさんも唸るやつをさ」

異論反論を投げられる前に、華奢な肩を両手でぎゅっと抱きしめる。問題ない。上手な三角形が握れなくても、この手があれば二人分の幸福は作れる。なまえの耳元で囁くのは、口元が緩むレシピだ。

「だから今度は」

何度でも、二人一緒に。



てのひらにあまるほどの幸福

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