第1回 | ナノ
 月の隠れた夜。僅かの悲鳴も許さぬうちに命を刈り取る、彼はまるで魔物か何かだ。人気のない裏路地にじわり広がる血だまりを、無言で見下ろすその表情は、全くもって伺い知れない。長く伸びた前髪の影に秘された目が、しかしどうせなんの感慨もなくそれを映しているのだろうと思うのは、振り降ろされる切っ先が余りにも美しいから。お抱えのその無口な暗殺者には、安易な殺戮という行為さえ似合ってしまうから、まさに殺すために生き、呼吸するかのごとく命を屠る死神は、自分が吹き消した灯を悼むこともきっとない。寧ろ自然なことと考えていても不思議ではない、と僕は思う。
自分のような傍観者には、実働的な仕事をこなす彼の気持ちなんて到底知る術はないが、最早動かない肉塊を見つめ続ける横顔が異様に静かなことくらいは分かる。度々彼の仕事の後始末を任される、この身としてはぞっとしない。鮮やかな所業に反する殺意のなさが返ってそら恐ろしく、姿を見せたらこちらまで死神の鎌に首を取られそうな雰囲気だ。が、彼は無駄な仕事は一切しない。
「お疲れさま、流石だね」
と、血のにおいに気圧されぬよう、ごく軽い調子で路地の角から声をかけると、肩ごしに振り返って小さく頷く。
「…確認」
 風が吹けばかき消されるほど小さく発されるセリフは常と変わらず、膝を付いて検分したそれに刻まれた傷も常と何ら変わりない。いつも、いつも、喉を横からまっすぐ裂かれた死体は何か言いたげに口を開いているが、声が漏れることなど当然ありはしなかった。
「ああ、完璧だ。後片付けは任してくれていいよ。こっちでするから」
 大きくはないが場にそぐわぬ明るい返事をどう受け取ったものか、彼は殊更にゆっくり頷く。
「よろしく」
と、矢張り聴き逃しそうな小声を寄越し、手にしていたナイフをたたんだ。パーカーのポケットに無造作にしまわれた銀色は小さく、よくここまで斬れるものだと毎度感心させられる。それもひとえに彼の技量ゆえか。殺人の才などあったところで、真っ当な人生を送る人間には何の役にもたたないが、彼はある意味有益な使い方をしていた。何しろ、暗殺業は獲物が大きくなればなるほど高給だ。人の死どころか世界の全てに対する興味を持ち合わせていないように見えるこの男は、その手にしているだろう莫大な報酬を一体何に使っているのか。ふと興味が沸いて、踵を返した背中に問い掛けた。
「聞いてもいいかな」
「…………」
「君は何故こんな仕事しているんだい?」
 普段なら、必要以上の会話はしない。口数の多い僕であっても仕事中は自粛しているし、何より話す相手くらいは選ぶ。この寡黙な死神を相手に、僕が求める他愛もない言葉遊びができるとはかけらも思われず、不必要な言葉を投げ掛けたのはこれが初めてのことだった。ただ無駄をしたところなど一度も見たことのない彼からの反応を僕は期待しておらず、無視されれば何事もなかったように仕事に戻る気でいた。聴いてみたくなったから口に出しただけのこと。だが、沈黙を守ったまま立ち去るだろうという予想に反し、彼は歩みをぴたりと止めた。髪も、タートルネックのシャツも、その上に羽織ったパーカーも、細いジーンズも、10ホールのエンジニアブーツの靴紐まで真っ黒な彼は、月明りのないこの夜の中に闇そのもののように立っている。身体を斜めに逸らし、振り返る表情は、矢張り僕にはよく分からない。そこだけ晒された口許が微かに動き、そして発された声にも感情の色は見つけられなかった。
「……何故」
そんなことを聴く、と問い返されて、僕は苦笑する。何か意味を求めて聴いたわけではなかったから、意味を求められても困るのだ。
「なんとなくだよ。ちょっと気になっただけ」
そうとしか、答えられない。考えなしの発言はしない方がよかったと、少し後悔しながら気にしないでと肩を竦めれば、彼はかくんと首を傾げた。それはどこか、無慈悲な暗殺者には似つかわしくない幼い動作で、ああ彼でもそんな仕草をするのかと、視線の先に立つそれが人間であることをやっと認識できた気がした。本当は、生きていない幻のようなものなのではないかと疑うほど、彼は異様な存在だったのだ。しかし彼が幻ではなく、自分と同じ人間であるのなら、どうしてそうまで無でいられるのかと不思議に思う。そのくせ、いっそ芸術的ですらある殺人のスキルを使って得るものが金だなんて、俗っぽい香りのするものだから、違和感があって仕方がない。そんなようなことを、彼に聴かせるでもなくつらつらと考えるうち、気づけば当人が目の前にやってきていた。音もなく。そうして並び立った目の高さはほぼ変わらず、前髪の隙間から覗く黒がまっすぐに僕を見ていた。
「……何かな?」
 突然のことに跳ねた心音などはおくびにも出さず、問う。彼に向けて、僕が仕事に不要な言葉を口に上らせたこと自体が珍しければ、彼がそれに反応したこともまた珍しい。更には、通常なら仕事を終えてすぐに姿を消す彼のこの行動。もしや何か気に触ることでもいったかと、思わず半歩後ずさる。と、パーカーのポケットから出てきた手が伸びて、心臓の上あたりにすとんと乗せられた。
「…………」
よく見れば手袋をしているその手は乾ききらない血で汚れ、夜目にも鮮烈な赤が触れた僕のシャツにも移った。使い古しのような自分の仕事着が汚れることには全く構わないが、彼の行動の意図が読めなくて、今度は僕が首を傾げる。彼は戸惑う僕に構わず、手のひらを僕の胸に置いたまま、相も変らぬ小声で言った。
「あんたは、生きているのか」
 彼は何を言っているのか。もしかしたら先の質問に答えてくれているのかもしれないが、僕は脈絡のない彼の話についていけなかった。しかも、また問い返されている。つまり、彼は何が聴きたいというのか。それとも、僕が彼を幻だと思ったように、彼も僕を幻だとでも思ったのだろうか。確かに、お互いが顔を合わせる場面は普通の状況ではなく、生きた人を殺す男と、死んだ人を捨てる男だ。どこからどこまでか死者でまた生者であるか、その境界線が曖昧になるのも仕方がないが、僕からすると心外な質問だった。
「……見て分からないかな。もう少し長く生きるつもりだけど?」
 僕もまた、人の死に対する情動はすっかり麻痺していると言っていい。だが彼のように、その結末を自然なこととして受け止めているわけではないのだ。本来ならばイレギュラーなできごとなのだと知っている点で、僕は彼ほど人としての輪郭を喪ったつもりはなかった。そんな滑稽なプライドが刺激されて、つい刺々しくなった僕の声音も、しかし彼には届かない。
「生きている奴は、なにもくれない」
あんたは違うのか、と続けたその言葉の意味は矢張り掴めない。
「どういうことだい?」
 訊ねても、それ以上の答えは返っては来なかった。彼はまた沈黙し、すだれになった前髪の奥からじっと、僕を見る。胸に置かれた手のひらは、外見の印象から想像するよりもずっと温かく、彼も人間なのだということをいやにはっきりと知らされた。それでも僕は、こんな人間がいるのだろうかとまだ半信半疑で、確信を得るには懐に飛び込むしかないなどと考えている。死神の正体が何であれ、与えられた仕事をこなしさえすれば生きていくにはひとつの問題もないというのに。無為を自ら買って出るなんてバカのすることだと分かっているのに、言葉がこぼれた。
「……僕は槙島聖護。君の名前を、聞いていいかな」
本名を名乗るリスクまで侵して僕は何がほしいのか。そもそも、得られるものがあるかどうかすら不確かなままそう聴くと、彼はしばし考えるように俯いて、たっぷり30秒ほど置いた後に薄いくちびるをそろりと開く。
「みょうじ、なまえ」
 区切って発音された彼の名は。
「…なまえ?」
 闇を具現化すれば恐らくはこんなふう、と評したくなる男が名乗るにしては、きれいすぎる音だった。僕のおうむ返しにこくりと頷く様子からすると偽名ではなく本名なのかもしれない。
「いい名前だね」
とは言っても、彼の名乗ったそれが例え似合っていようとなかろうと、さほどの問題ではない。実際、お互いの名前を知り合ったところで呼ぶことなどないのだろうし、だからこそ益々僕は可笑しく思う。通称でも偽名でも本名でも、彼個人を指すその音を知っている者が居れば居るだけ彼のリスクは増すのだから、僕のような有象無象に何も教えるべきではなかったのだ。そんなことは暗殺者である彼なら重々承知しているだろうに、尚答えてくれた。ただの気まぐれか、それとも理由があってのことなのかは彼にしか分からないことだが、僕と同じ理由であってほしいと願う。まるで自分の位置を確かめるようにお互いの存在を確認し合って、触れる体温に安心できたら。どこかで喪失した何かを取り戻せるかもしれないと、彼が少しでも考えたなら。僕も彼もまだ人間でいられるのだと、ほんの一抹の不安もなく信じることができそうな気がした。
「…また、」
また今度、また会おう。続きを繋げればきっとこんなものだっただろうセリフを途中で切り、彼は僕から静かに離れた。暗がりの中に沈んだ彼の表情はいつもどおり読めず、目も見えないが、変わりに夜に慣れた視界に浮かぶ肌が名前に違わず白いと知った。似合わない、というのは撤回する必要があるかもしれない。再び笑いを漏らした僕を置いて、彼は踵を返した。
「じゃあ、また」
 笑いを含んだ声のまま、間延びした調子で言って僕は手を振る。そこだけを見たら、ただの友人同士のようだったろう。しかし僕の足元には依然として彼が手にかけた人間が転がっていて、現実的にはそんな平和な風景とは違うのだということは、言わずもがな知れたことだ。また今度、彼と僕とが会うときも、場所が違うという以外に状況の変化は有り得ない。矢張り彼は殺す男。そして僕は捨てる男。深みに嵌った僕たちは、それでも今度からは呼ぶ名をそれぞれに持っている。つまり足音もなく路地に消えていく後ろ姿は、死神の顔をした人間なのだ。僕と同じ。今は呼吸を奪われた死体と同じ。そう思うとなぜか、もっとたくさんのことを聴いて知ってみたいと、思った。できるなら、彼の白い顔がよく見える満月の夜にでも。雰囲気だけは十二分にある、死体の隣であろうとも。



ワンクリック・ラヴストーリー

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -