7 | ナノ
槙島さんの傍で、剃刀が鋭い光を放っていた。
ゆったりと足を組んでいる槙島さんとは対称に、それは忙しなく私の瞳に危うい煌めきを送る。まるで主人の傍に侍る従者のようだ。いつ、その刃が主人の気まぐれで飛んでくるか分かったものじゃない。
私と槙島さんの関係は明らかなギブ・アンド・テイクで成り立っていた。
どこからともなく私の惰性な日々に介入した彼と私の関係は、何とも形の不確かなものである。それは実に背徳的なものであり、甘美な響きを持つ表し方もできるだろうが、一般的な言葉に当てはめてしまえば、不毛かつ下世話なものだ。彼ならば、それに美しい表現を携えることができたかもしれないが、そんな無意味なことをむざむざと口にする訳もない。
槙島さんが私に求めたのは人間としての情欲の処理で、彼本人の性への関心は、全くといって良いほど淡泊だった。ふらりと、それでも定期的にここへ寄ると、あっさりと行為を終えて、甘い言葉ひとつ無く帰っていく。そこに、何らかの特別な感情は存在していなかった。
では、私は一体何を槙島さんから受け取っているのだろう?ギブ・アンド・テイクは一方的なベクトルでは成り立たない。それについて考えるとき、私は指先をその正体が掠めていくもどかしさを感じた。目を凝らせば凝らすほど、得体の知れない霧の中へとその身を隠してしまう。まるで槙島さんそのものの様な気がした。
幻影、まさしくそこに存在するのに、その姿に手を伸ばせばたちまち消えてしまう。

「そんなところで立ってないで座ったらいい」

何と言う陳腐な言葉を吐くのだろう。私は我に戻るとそっと槙島さんの横に腰掛けた。白いシーツにもう一つ、影が浮かび上がる。彼は剃刀を持った手のまま、私の髪の毛を梳いた。するすると、自分の髪の毛が彼の綺麗な造形をした指を流れ落ちていくのを見るのはとても贅沢なものだったが、目と鼻の先にある薄い刃が、それを丁寧に打ち消してしまう。
槙島さんが意図的に私を不安にさせているのは分かっていた。私が悦楽と恐怖の間で揺れ動き、顔の表情に怯えが滲むのを、彼はとても好んでいた。それは二分された同種が、他方より優位にある時に感じる優越感なのだろう。彼は酒や煙草といった嗜好品より、これを味わう方がお気に召す様だ。何しろ、目の前の女から容易く生産できるのだから。
槙島さんはその唇を薄く開いて笑う。

「君は、人間の部位でどこに魅力を感じる?」
「槙島さんは変なことばかり訊きますね」

問いへの答えを探すために、目の前の男の踵から白銀色の髪の毛まで、視線でなぞり上げた。
視線は端正な顔から肩へと落ちて、腕を伝って、今まさに自分の頬へと添える指先へ終着する。人の命を刈り取ることを易々と遂げてしまいそうな危うさを帯びた手。

「手、でしょうか」
「なるほど。どうして?」
「人を殺めるのも、愛でるのも、全て"手"を通してだから、その手が綺麗だとその人が為すこと全てが美化される、気がします――私、槙島さんの手は好きですよ、形が素敵で」

一番、本を捲るその手つきが魅惑的だとは言わなかった。それだけは自分の中に秘めておく。手か、と呟いた槙島さんはその手で私の顎をぐいと上げた。今度は私が彼の視線に巻き取られる番だった。そのじりじりと焦がすような視線が肌の上を行き来するたびに、愛撫されているかのような変な気分になった。私は慌ててそれを心の中から追い出した。死んでも彼に懐くような女になりたくない。
それにしてもまるで視姦されているみたいだ。そう彼に言ったら、間違いなくその剃刀が首筋に食い込むだろう。

「僕は、目が人間の器官の中で最も優秀で美しいと思う」
「なぜですか」
「感情が顔に宿るのを隠せても、目に宿るのは阻めない。そして、人間の外部情報の八割は視覚から得ているからね」
「ふぅん」

ふいに剃刀を持った手が私の肩を掴み、もう片方の手が私の視界を覆った。一気に暗闇の世界に落とされて、私は不満の声を出した。ただの冗談めかした悪戯だろうと思って、槙島さんの手首を掴む。びくともしなかった。その断固とした力に、潮が満ちるように恐怖がひたひたと押し寄せてきて、私は強い口調で「やめてください」と訴えた。
槙島さん何も言わない。表情が退いた口元と冷たい瞳でこの醜態を見ているんじゃないかと思った時、背中に震えが走った。気づく、肩から彼の手の重みが消えていることに。同時に鋭い感触が、つぅと鎖骨を撫でた。私はおののいた。あぐねているような曖昧な力加減でそれは、腕や足や頬をそっと過ぎ去っていく。いつ、どこに、今度は刃が宛がわれるか、私はひどく臆していた。剃刀の行く先も、彼の表情も知り得ない。
こわい。暗闇で心臓がどくどくとのたうち回る。もはや情事の一環だと考える余裕は残っていなかった。私は殺されるのではないか。私は槙島さんの機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。私は、何か失態を犯したんじゃないだろうか。例えば、今日出した紅茶が濃すぎたとか、そもそも私の返答が不味かったのかもしれない。
ただ、こわかった。私は半泣きで、暗闇の独房から解放された。「こわかった?」とさして気に掛けていないだろう声が優しく鼓膜を揺する。だが、私の安堵もそこですぐに霧散した。槙島さんは私の目尻に剃刀の切っ先を当てていた。眩い反射光が私の目を貫く。

「もし、僕が君を盲目にしたら、君はその見えない目で誰を見つめるかな」
「…自分だと言いたいんですか」

槙島さんは私のことが好きなのだろうか。少なくとも、私にはその言葉がそう遠回しに――洒落たな装飾で飾り立て本質を隠して――言っているように聞こえたのだ。唇が瞼にそっと触れ、ぞんざいに言葉を振り回す舌が眼球に触れる。反射的なのか、生理的なのか、よく分からない涙が痛みと共に溢れた。
それは私が自ずと招いたアイロニーだった。私が好きだと言ったその手が、彼の望む究極体へと導くために、私を破壊し、完成させようとしているのだから。
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