7 | ナノ
 女が流す涙と、男が流す涙は全くの別物だと教えられたのは一体誰からだったか。
 感情から起因される体液を流すのは女であり、体液を流す原因を感情と繋げるのが男だと言われ、狡噛はそれを従順に聞きながら心のどこかで馬鹿にしていた。
 涙というのは眼球に入ったゴミを流す為の洗浄液、外部からの乾燥や細菌を防護する役割があるだけだと思っていたそれを気にする必要はなかったからだ。狡噛にとって、涙という一つの体液は移り変わってきた人間の体内構造の成れの果てとしか考えてこなかった。
 分泌された涙にはストレスを発散させる成分が含まれている為、涙を流すという行為はシビュラ世代の人間には極めて重要な要素の一つとなっているという論文を読んだだけの知識しか持たなかった狡噛は、だったら涙は己の心を揺り動かす成分は含まれていないと鼻で笑う人間だった。
 だが、目の前で静かに涙を流す女の顔に唇を寄せると、嘲笑していた思考を引っ込めさせなければならなかった。
 無色透明で、味はほぼ無味。自分が流してきた涙は全て塩がきいた辛味のある体液だった。女の流す涙は確かに別物だと感じて目尻にそれを寄せると、大袈裟過ぎる程肩を震わせる女に狡噛は支配的な笑みを見せるしかなかった。
 涙の味しか知らない今の自分は、果たしてこれだけの液体で満足出来るのか。彼女は、自身の味覚を満足させる程の値の人間なのか。狡噛は目の前で怯え、膜が張って輝く瞳を見つめる。
 どうせ自分はこの体液だけでは満足出来なくなるだろう。みょうじの涙の味を知ってしまったが最後、狡噛は自身の奥底から湧き出る枯渇した思いを抱えてしまった。砂漠を歩き続ける旅人が、蜃気楼の向こう側に見えるオアシスを求めて彷徨う理由がよく分かった気がした。男はその先の桃源郷を求めてまた彷徨い歩く。それをどこか高揚した気持ちで待ち望むのは、相手がみょうじだからだと考えるのに時間はかからなかった。



 公安局勤務職員の為にセラピストとして常勤しているみょうじなまえは、職員の色相・係数管理の為にモニターを立ち上げる。メインモニターが起動すると同時に左右のサブモニターも同じように波紋のように起動していくのを眺め、一息つく。
 刑事課監視官・執行官一覧がずらりと並ぶそれをキーボードで操作する。セラピーに訪れるのは大半が監視官である為、モニターに常時表示させているのは監視官の管理画面だ。
係数が上がりつつある者、色相・係数共に優秀過ぎる程安定している者、様々な人間の精神数値を見て今後の業務内容を確認する。執行官一覧にも目を通すが、彼らがセラピールームに訪れるのは極めて稀だ。大半を非合法ギリギリの薬物を使用する。それに、既に規定値を超えた係数を持った人間に、今更セラピーを受診した所で安定することはないのだ。
 みょうじは執行官一覧画面を見つめ、ある一点が目に入り眉間に皺を寄せる。ただ一人、鋭く画面越しに見つめ返す男の所見は特に訝しむ所はない。男の係数は数歩先を歩けばより深い淵へと落ちる事になるという点を覗いては予々良好だ。だが、みょうじはそれに皺を寄せたのではなかった。
 無意識に下唇を人差し指でなぞる。薄いグロスの塗られたそこはなぞっていく度に不自然な痕を残していく。自宅を出る時には綺麗だったそれを直す気力はいつの間にかなくなっていた。
 か細い息をついて室内を歩く。セラピスト用にあてがわれた個室から取り出した白衣とタブレットを持って業務を開始する。もしもの為の警備用警告ボタン、緊急通信機器の確認もして気合の息を吐く。赴任当時は、意識的に大きな息を吐くことはなかった。
 公安局での業務が始まってからというもの、みょうじは胸に痼のような物が出来ているのを自覚していた。それは身体的な不具合ではなく、誰に診て貰えばいいのか分からない程の得体の知れない病のように感じた。
管理モニターと連動したタブレットが起動する。セラピールーム入出ドアに取り付けられた照合機にデバイスを近付ければ、デバイスに内蔵されている本人情報がモニター・デバイス共に表示される。真っ先に表示されたそれを見て、みょうじは考える余裕を失った。
 『執行官・狡噛慎也』その表示と本人証明の為の画像が送付されたそれは、勤務最初の相手にしてはあまりに幸先が悪い。
 みょうじは思わず額に手を当てて項を垂れた。失われていく余裕とそれを取り戻す気力、この先に何が起こるか分からない恐怖、そして脳や心臓から湧き上がるような昂ぶり。それら全てを抑えこむ程の体力は朝から持ち合わせていなかった。
 公安局に取り付けられた自動ドアと同じ速度で開くそれを見つめる。その先に立つ人物は、みょうじが赴任してから最もよく知った人物となっていた。
 狡噛はセラピールームに佇む白衣姿の女を見据え、微かに口角を上げる。草原に生息するウサギですら自身の身を守る為に擬態や脱走を試みるのに、目の前の人間はまるで動こうとしない。怯え、震えるくらいなら目先にある緊急用のボタンなり何なり押せばいい、狡噛は久しぶりの獲物だと言わんばかりに緩慢な動きで近付いた。あわよくば、今の状況に舌なめずりしたい気持ちでもあった。
「俺じゃ不満か?」
 挑発するような言葉を受け、みょうじは震えていた体を叱咤するように力を入れる。分かりきった事言うものだと怒鳴り散らしてしまいそうな自分を抑え、右手に持ったタブレットを今一度持ち直す。
「いえ、すみません。なかなか執行官の方はいらっしゃらないものですから、少々驚きました。不愉快でしたら謝ります」
「俺以外の執行官は来てないって事か」
 男の浮かれた声にみょうじは慌てて顔を上げる。いつの間にか見上げなければならない程近くなっていた顔に上手く息が出来ずにいる。狡噛はその表情を見て、目的遂行の為に行動を始めた。
 一定の距離を詰めてくる狡噛に後退りをして逃げるみょうじは、狡噛にしてみれば恰好の獲物であり、愚かな弱者だった。逃げ道はいくらでもあるこの環境で、後退りをする事しか手段がないと思い込んでいるみょうじは、逃げる事など不可能だと体を張って教えてくれているような気がしていた。
 背中に壁が当たるのが分かり、気丈に振る舞う為に掴んでいたタブレットを床に落とす。降伏と等しい姿を曝け出し、絶望のあまり喉の奥が痙攣したかのように嗚咽が出始める。視界がぼやけ、眼球を防護せずに入水したような曖昧な視界が作り出された頃、狡噛はそれを見計らってみょうじに顔を近付けた。
「あんたも待ってたんだろ」
 これから先の手順はみょうじはよく分かっていた。それを知り尽くしている自分がいっそう理解出来ず、瞬きを一つする。視界が良好になった時、次の手順が踏みやすいように顔を上げると、狡噛はそれを満足気に見つめて唇を落とす。舐め取られた涙は唾液と共に狡噛の口の中に消えていった。
 出勤時に完全体だった理性は、涙と共に吸い取られていった。みょうじはそれを情けなく思いつつ、諦めに似た感情を抱く。女が持つ理性は、穴から湧き出る液体のように重力に沿って流れてしまい、拭い舐められれば瞬く間に本能が剥き出しになる。一滴吸い取られた涙は、理性崩壊の為の初段階だった。
「セラピー以外の用でしたら帰って下さい!」
「そう言ってあんたは俺を追い返した事はなかった」
 必死に抵抗したつもりの言葉も返され、それが図星だと分かると途端に閉口する。その有様は狡噛のメインイベントを盛り上げる為の一環だった。ゲームのようなやり取りを楽しみにしつつ、これはゲームではないとあらかじめ結論付ける。ゲームでもなく、行事でもない、ある一つの現象を緩和する為の薬であると感じていた。
 目尻に溜まった涙を吸い取るように寄せる。相変わらずの無味のそれを求めるようになって暫く、狡噛は無味以外の液も好むようになった。それを口にすることが出来るのはセラピールームという潔白な空間であり、誰しもが利用する事が出来る診療室。美しく、汚れがあってはならない場での他人同士の体液のやり取りは、精神を高ぶらせるのに十分な環境だった。それに上乗せするようにセラピールームを拠点としているみょうじという存在。皺も汚れもない白衣に身を包み、セラピストの名をほしいままにする淡い色の色相。それを自分と同じく泥沼に潜らせる行為は理に反する事でありながら、それ以上に飢えを満たす事でもあった。
 僅かに開いた口から、さも当たり前のように侵入する舌に抵抗する事も出来ずに絡め取られていくのを感じながら立ち竦むみょうじは、既に次段階への変化が自身で起こっているのに気付いていた。
 口内に生き物が住んでいるような気がするが、それを気持ち悪いとは思わない。その生き物は湿気の多い立地を好み、土地から生成された自然の液体を餌として生活をする。そう考えれば、自然と狡噛が乱暴に動く舌の意味を理解する事が出来た。
食事の邪魔をしてはいけない。善意か悪意か分からない己が諭し、それに賛同すれば顎に粘液性の体液が伝っていった。
 それすらも見逃さずに狡噛は舐め取る。伝っていった場所が分からない程、綺麗になぞられたそこを感じつつみょうじを見れば、顔を上げた女は男と同じ目的を持ち合わせる表情をしていた。
 みょうじは熱に浮かされたように狡噛のシャツ越しから分かる体や剥き出しになった首筋に手を滑らせる。筋の通った首に手に吸い付くように滲み出た汗に唇を寄せると、塩分を舌先で感じる事が出来た。暑さにやられてしまったかのように塩分を求めて執拗にそこに吸い付くみょうじに、狡噛は体を守っていた白衣を剥ぎ取った。首筋から肩にかけて湿り気を帯びた肌に手を添えれば、その先の溢れ出る体液に喉を鳴らす。
「あんたも俺と同じ穴の狢だ」
 狡噛の手を取ったみょうじは、その言葉をより深く真実へと近付ける為に誘導をする。涙でもなく、汗でもない。赴任して狡噛と出会ったあの時から、その深淵に立つ男にしか味わわせてこなかった未知の体液に触れさせる。狡噛は指先に伝わるそれを絡め、舌先まで持って行くと今まで以上に喉の渇きを覚えた。心地良い程の渇感に息が荒くなる。狡噛は、その瞬間を待ちわびていた。
 みょうじは首筋から顔を離し、狡噛を見上げる。みょうじもまた、狡噛しか知らない体液の味を求めて喉を渇かす。その瞳は、砂漠の熱を当てられて朦朧とした旅人のようだった。
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