7 | ナノ
※微グロ



酷い雨だ。
ビル群に降り注ぐ鋭い雨は、不穏な嚆矢を招くように耳朶を厳しく叩き、奥深くまで不快感を齎す。恰も人類が安寧し怠惰する様を嘲笑い、手を叩き、指を突きつけ気紛れに断罪しているようだ。

そんな幼稚な発想を茫漠と思い浮かべている間に、彼は隣にしゃがみ込んで被害者の損壊部を検分していた。強い雨が死者の胎内から血という血をすっかり洗い流してしまって、驚くほどに青白い肌をしている。

私も伸元も傘は差さず、増水する地面に足をしっかとつけて、その死に様をとくとくと観察した。無論趣味や私利私欲によるものではない。これは私に科された罰であり、救いであり、生きる上でのプロシージャに過ぎない。

私が何もせず突っ立っているのが不愉快だったのだろう、伸元は厳しい目付きの矛先を死体から私に変えた。

「サボってるわけじゃない」
「フン、どうだかな。間抜け面を晒すのが仕事ならそうだろう」
「嫌味のつもりならジョークに欠けるわね。そう、伸元君に足りないのはジョーク、ヒューモア、そういった類なのよ。他人を笑わせようと思ったことある?」
「一体何の意味がある?それより、これを見ろ」

伸元はついっと顎で示した。

「…銃創ね」

グレーの品のいいスーツには一つ穴が開いている。くっきりと丸く。焦げ目が付いていることから接射されたものだと分かった。

「ああ。心臓を一発で仕留められている。その後、じっくりと肉を削がれたらしい」
「いたいけな女の子が見ていいものじゃないわ」
「誰がジョークを述べろと言った」
「あら冷たい。私本当に未成年なのに。まあいいわ。ともかく、例の連続猟奇魔の犯行に間違いないみたい」
「…そのようだな」

伸元はそこで少し表情を暗くさせた。

ああ、まただ。
なまえは何度目かの光景に目を僅かに細めた。

彼は時折ふとした拍子にそんな風になるのだった。なまえが推測するに、恐らく自分と彼が出会うずっと以前に何某か辛い出来事があったに違いない。扁桃体に深く蔓延るほど強い衝撃と慟哭と激情と…、それらはきっと彼を構成する一部分に成りきれずにいるのではないか。

巷を騒がせる悪趣味な連続無差別殺人は格別彼を苛むようで、なまえは同じ執行官として行動を共にしてから、幾度となくその暗く冷たい横顔を目にしている。

「伸元君、美味しいパンがあるのよ」
「…何だ、藪から棒に。今言う必要があるのか?」
「えぇ。だって人は空腹だと落ち込むでしょう?だから、私この仕事が終わったら君を部屋に呼ぶつもりよ。美味しいパンと鶏肉のサラダ、あとは、メルルーサのトマト煮なんか最高だね」
「よくもまあペラペラと、死体の前で食事の話ができる」
「ふむ…確かに、トマト煮はなかったかも」

口許に拳を当ててデリカシーの欠片もなく言い放ったなまえに、伸元は小さく息を漏らした。それは溜息に違いなかったけれど、ほんの僅か緩んだ目元と口角に一先ずは満足した。



執行官みょうじなまえの生い立ちはあまり知られていない。十代という異例の若さでの抜擢にも関わらず、情報は殆ど公にされていないからだ。事実監視官である常守朱の手元に渡った資料にさえも、さして目を引く項目は載っていなかった。極短縮化された文字の羅列は余計に異様な風体だったが、当人であるなまえに問題視すべき点は全くといっていいほどなく、寧ろ良好に一係に馴染んでいるものだから自然と忘れられている。その異質さを。

「朱ちゃん、お皿とって〜」
「あ、はーい!」

背中ほどまで伸びた真っ黒な髪と小柄な体躯は、庇護されるべき対象としては容認できても、罪人に食らい付く猟犬には決して見えない。朱はキッチンでくるくると動く小動物のような様を、何だか母のような姉のような複雑な心境で眺めていたが、唾液を誘う馥郁たる匂いと声に呼ばれ立ち上がった。

「…ねぇ、朱ちゃん」
「ん?何かな」

近付けば予想外に真剣な顔をしたなまえがいて、朱は僅かに目を瞠る。黒目がちな円らが一瞬こちらに照準を当てて俯くので、朱はそっと声を落とした。もしかしたら余り伸元に聞かれたくない事柄かもしれない。しかし焦げないよう中身を掻き混ぜつつ、なまえはそのまま首を振ってしまった。

「………ううん、やっぱりなんでもない」
「えー、気になるなぁ」

どう見たって何でもない風ではなかったが、しつこく詮索するのも感じが悪い。一係なんてけったいな場所にいる彼女だが、年齢を顧みれば十分悩み多き思春期だ。恋の一つだってしても可笑しくない女の子。同年代が学業に励み、友情や恋愛に勤しむその時間を、なまえは猟犬として酷く血腥く生きている。突付けば忽ち破裂する風船のように、胎に澱んだ感情だってあるだろう。敷衍した激情が彼女を壊してしまう可能性だって到底否定できない。だからこそ、鬱陶しくない程度に軽く促してみたのだが、最早先程の雰囲気は霧散してしまったらしい。

「まぁまぁ。はい、味見どうぞ」
「もう…はぐらかされたような…でもおいしーい!」
「でしょ?さぁ、伸元君が怒らない内に準備しましょう」
「あ、でもあと一口だけ」

朱は敢えてその空気に呑まれた。彼女が垣間見せた弱み、それは気付かなかった振りをするのが正解なのだろう。口に含んださっぱりとしたトマトの果肉を嚥下し、朱は気長に待つことに決めた。

カウチに腰掛けた伸元はそうしたやりとりには一瞥もくれず、黙々と手元の資料に気をやっている。すらりとした目鼻立ちはぴくりとも動かないが、脳内はコンピュータのように目まぐるしく働いているに違いない。なまえも朱も慣れたもので気に留めず、少しばかり遅い夕食の準備を整えた。



被害者は揃って臀部を失くしていた。いや、奪われたと言うべきか。綺麗に削がれた切り口は見事なもので、手練の仕業と見られる。今回で五人目となる被害者たちに共通点はなく、男女の見境もない。比較的肉付きのよい体型、また色白の部類といった程度の薄弱とした取っ掛かりくらいか。この狂った犯行者はどうやら並々ならぬ執着があると見えて、鮮やかに一発で命を奪うとそのあと丁寧に臀部を切り取っている。殺人行為が目的でないことは明白だ。

「ピゴフィリアね」
「…特定の性的嗜好を持つ者のことか」
「ん」

食後の珈琲を啜りながらなまえは目を細めた。これもなまえが淹れたものだが、インスタントの為手間は掛かっていない。それでもほっとする瞬間である。朱は溜まった仕事があるといって先程辞去し、部屋には二人きりだ。

「それよりも、ちょっと飲みすぎじゃありません?」
「…そんなことはない。莫迦にするな」
「莫迦って…酔ってるなこりゃ」
「酔ってない!」

普段の鉄面皮が嘘のように紅潮し、心なしか饒舌で語気も荒い彼を、酔っていると言わずして何たるか。珍しく彼が所望するからこっそり隠していた赤ワインを注いでやったのが数十分前。これが随分とペースが速い。何を言うでもなく、空になったグラスを差し出される。

判断を誤ったかしらと目を丸くするも、今までに見たことのない彼のだらしなさが面白くて注ぐ手を止めることができなかった。何しろ彼が酔った姿を見るのは初めてだ。平生の彼らしくなく襟元に指を引っ掛け崩し、薄らと汗ばんだ髪を掻き上げる様はちょっと恰好いい。何て、絶対に口に出してはやらないが、となまえは糖類ゼロのカフェインで舌を犯した。

「反倫理的趣向を持ち、且つその衝動を自分の内に留め置くこともできず実行に移してしまった幼稚な犯罪者。まぁまず間違いなく色相がどっぷり濁ってるでしょうね。見つかるのも時間の問題よ」
「それまでに一体何人の被害者が出ると思う。待っている暇などない」
「別に待つなんて言ってない。私は君より短気で喧嘩っ早いんだよ。見つけたら喉仏引き千切ってやる。…あ、これ朱ちゃんには内緒ね」
「誰がそんな下らない告げ口をするんだ」

伸元は手ずからワインを注ぎ、物憂げに傾けたグラスを斜め下から見定めた。まるでそこに彼の追っている獲物が潜んでいるかのように真剣な眼差しだ。しかしそれも直ぐに放散し、煽った直後の彼の目許は先刻より赤味を増している。

「なまえ、こっちに来い」
「いやよ。誰がおめおめと狼の手中に嵌るもんですか」
「面白くないジョークだな。まるで俺がお前を襲うみたいな言い方じゃないか」
「あらやだ、まるで万が一にも襲うわけないみたいな言い方じゃない」
「…言葉遊びはやめろ。それと、その大人ぶった喋り方もだ」
「……っ」

長く鬱陶しい髪の間から覘く彼の双眸は昏く光っている。いつの間にかガラステーブルを挟んだ彼の顔が間近に迫ったかと思うと、頬を挟まれて唇を奪われていた。

「いいから、来い」

僅かに離された唇と唇の間でそう囁かれた後のことは、正直余り鮮明でない。



執行官如きが贅沢など出来るものではない。簡易ベッドに毛が生えたくらいの、しかし寝心地はまあまあ合格点のシーツの中で、なまえの幼い体躯は小さく跳ねた。それは成熟しきっておらず、加えて経験さえ浅く初心である。伸元はなまえをうつ伏せにし、滑らかな肌を堪能していた。

「震えているのか」
「別に、ちょっと寒いだけ」
「そうか。なら温めてやる」
「あっ、ち、違うっ!そういう意味じゃ…」

背後より耳裏を舐め、ねっとりと息を吹き込んだ。すると面白いようになまえの肩は戦慄き、項は赤く染まった。

「お前の肌はきれいだな」
「お褒めに預かり光栄ですこと」
「…気味の悪い話し方はやめろといった筈だ」
「そっちこそ気味が悪いったらない!」

伸元はなまえの臀部に俄かに触れ、剥き出しの柔肌に頬を寄せた。彼女は、もう慣れていた。同時に、そうすることで彼が何かに納得している(その何かなど推測も及ばないけれど)事実も受け容れていた。

「ねぇ、それは性的な意図かしら。それとも子供染みたごっこ遊びのつもりなの」
「利用されていると思っているんだな」
「間違ってる?」
「いいや、お前は正しいよ。俺は汚い人間だ」

そして冷たい感触が肌に落ちる。沛然と降り頻る雨が、彼の中で渦巻いている。それがほんの数滴、間隙を縫って零れ落ちただけだ。

そう、伸元は泣き虫である。それはそれは美しく泣くのだ。私は正直なところその様をいつまででも眺めていられる自信があったが、彼はそれを嫌がる。まあ当然か。誰も好んで自分の浅ましくみっともない部分など見られたくない。

「見られたくないのなら、この部屋から出て行って自分の部屋でシーツでも被ってしまえばいいのに。君は狡いね」
「何とでも言ってくれ」

彼は弱っているみたいだった。今日見た被害者の残骸のせいだろうか。私は他人や自分が思うよりも図太いのか、腐乱や欠損のある肉塊と初めて会見したときだって吐いたりしなかった。多少なりの嫌悪感は抱いても、気持ち悪いとは思わない。車に轢き殺された烏の屍骸、鬱陶しくて咄嗟に潰してしまった蟲けら、そういったものと大差なく観照できる。

それよりも、自分の意思を依存に委ね哂っていられる、動く人形の方がずっと気味が悪くておぞましいではないか。怖気が奔る。だが彼は私より幾分まともな構造らしく、被害者には同情を、加害者には憤情を、別け隔てなく与える。まるで天使みたいだ。と、一寸羽をこさえた伸元を想像し笑ってしまった。

「何が可笑しいんだ?」
「いいえ、違う。いや違わないんだけど、別に今の状況とかじゃなくって。ただ、伸元君は別に、そのままでいいと思う」
「は?」

依然として私の臀部に頬をくっ付けたまま低く唸った彼は、失礼だが愛らしいような気がした。

「君はみっともないくらいがちょうどいいってこと。鉄面皮と無愛想が君の楯ならば大いに活用すればいい。別に吐き出す場をどこに求めたっていいじゃない。それって凄く人間的だよ」
「…フン、やっとらしくなってきたじゃないか」
「あらやだ、レディの裸に抱きついといて、そんな台詞言ったら誤解を招きましてよ?…何てね。私だって、そりゃあ色々あるの」
「ならぶちまければいい。今お前が言ったことだ。それとも何だ、自分だけはお綺麗なままいたいのか?」
「きれいなんて、思ったことない。それに私、伸元君の前では結構曝け出してるんだけど。精神的にも肉体的にも」
「どうだか」

拗ねた声が跳ね返ってくるのが面白い。弱っているのは間違いないが、酒で気分が高揚しているのだ。

「じゃなきゃ、誰が好き好んでお尻枕にしてあげますか。あ、こら、舐めるな」
「何でだろうな、お前のここは落ち着く」
「それ絶対他の人の前で言わないでね」

精神安定剤とは聞こえがいいが、裸の男女が触れ合っていて何の発展もないというのはどうなのだろう。キスはする。でもそれは前戯というわけではなく、慰めのような気がする。いや、謝罪という方がしっくりくる。私達は恋人同士ですらないのだ。

「ピゴフィリア、か」

吸い痕を時折残し、心地好さそうに微睡みに揺れる伸元。長く伸びた前髪が肌に触れるのが擽ったい。掻き分けてやりたいけれど、届かない。

「俺もきっと病んでいるんだな」

掃き溜めに落とされた本音を、なまえは掬い上げたりはしない。かの地に潜む犯罪者や、繰り返される被害者の連鎖を、本当のところ彼は何とも思っていないのかもしれない。或いは自らの胎に眠る卑しい部分を許せなく思っているだけなのかもしれない。恬淡に見せかけて慾深な、無防備に幼い顔を曝して眠ってしまう、子供みたいな彼を私は好ましく思っている。この端倪すべからざる不様な男を、人間としていとおしく思い始めている。

「…そうね。私もそうよ。すっかり病んじゃったみたい」

けれど、その言葉は吐き出せずじまい。
彼は私の白く丸く張った臀部の肉に顔を埋め、羊水に戻りたがった小児の如く咽ぶのだ。

この病は治らない――生きている限り。
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