それは異様な光景だった。
ホロも設定されていない窓もない部屋で、唯ひたすらに無心に巨大なキャンパスに筆を走らせる若い女。その目の前には、硝子で隔てられた部屋がある。いや、部屋と言うよりも、硝子の箱と表現した方がふさわしいだろう。そこ詰められた幾人かの男女は皆一様に狂ったように喚いていた。
彼らの奥の白い壁には巨大なスクリーンがあって、そこには各人の顔写真と名前とともにサイコパスの状態が表示されていた。そのどれもが色相が濁っていた。
出してくれと喚いている人。
絶望し座り込み微動だにしない人。
まるでこの世の終わりのように狂乱する人。
しきりに頭を硝子に打ち付ける人。
舌をだらりと下げて死んでいる人。
顔を張らして血を流して寝転んでいる人。
混沌と化した硝子の箱の中身は、恐怖と怒りと不安で満ちていた。
槙島は女のキャンパスを見て、顔を綻ばせた。
「やっぱり、君の方がいいな」
黒の濃淡のみで描かれているのは、半ば半狂乱の中高年のヒトが苦しみ悶え、惨めに、無様に、哀れに、マリア像に縋り神に許しを請う姿だった。
王稜璃華子の絵が背徳的美しさを感じさせるが、彼女の絵はある種の神々しさを感じさせる。
とても美しく、背徳的で、なのに神々しい。まるで地獄に天国があるような。そんな錯覚さえも感じる。
「槙島、私は今忙しい。くだらない話なら後にして」
槙島は肩を竦めた。そして我が物顔で、壁に立て掛けられていた椅子を開いてそこに座った。
彼女は絵を描くのを中断させられるのが、数ある嫌いな事の内で一番嫌いだった。彼女にとって絵を描くと言うのはセックスと同意義で、それを中断させらるというのはひどく苦痛なのだと、最初の頃に彼女は槙島にそう語った。
彼女が描きおわるのは何時になるか分からず、けれどキャンパスのだいたいが埋まっているのを見て槙島はこのまま待つことにした。
槙島は本を読み終えると、閉じて膝の上に置いた。手持ちぶさたになんとなく、箱の中の彼らを眺めるが、すぐに飽きて、槙島は彼女を眺めることにした。
無造作に束ねられた黒い髪。姿勢はあまりよくなくて、少し猫背気味だ。服装はいたってシンプル。白いAラインのワンピースに素足に白いブーサン。汚れないようにつけているのだろう、真っ赤なエプロン。
エプロンの紐が彼女の腰をきゅっと縛っていて、それが妙になめまかしい。
槙島はそっと音を立てないように立ち上がると、彼女に忍び足で近づいた。
背筋をそうっと指先でなぞる。
反応なし。
今度は首筋をそうっと指先で撫でた。
これも反応なし。
槙島はだんだん彼女の意識をどうしたら自分に向けられるのか気になって、彼女にいたずらを仕掛けることにした。
耳に息を吹き掛けたり、髪をほどいたり。首から肩までのラインをなぞってみたり。靴を脱がせたり。
なんとなく脇腹を突くと、彼女は槙島を一瞥してまた作業に戻った。
もう一度突くとと、眉間に皺を寄せた。
手を止めて槙島の方を彼女が見る。
「槙島」
「なに?」
「止めて」
「暇なんだよ」
彼女ははぁとため息をつくと、また書きはじめた。
真剣に絵に向かう彼女を眺めながら、槙島はため息をつきたいのはこっちなのにとひとりごちた。
彼女がかまってくれないので、また槙島は、彼女を眺める事にした。
項で括られていると思っていた髪は実は項の少し上で結ばれていて、その髪は見た目よりも堅かった。目はどこまでも真剣なのに、頬は赤く色づいて、半開きの赤く熟れた唇からは熱い吐息がこぼれ、見かけはまるで恋する少女のようだ。彼女が舌なめずりした。欲望に満ちた顔つきで――しかし目は依然として真剣なまま――、彼女は絵を描き続ける。
槙島は不意に、彼女のりんごのように赤い唇にかじりつきたくなって、彼女に顔を近付けた。
「聖護」
あと3pと数ミリと言うところで、やんわりと止められた。
「だめだよ、君じゃまだ若い。」
吐息が触れ合う距離で、あの真剣な目が槙島を見つめていた。
「君はいつもそうだね。一体いつになったら僕の求愛に答えてくれるんだろう」
「答えられないよ、いつまでもね」
彼女は口の端を釣り上げて「おまえはかわいいね」と言った。
「……そんなこと初めて言われたな」
「おや、それは意外だね。こんなにもかわいいというのに」
そう言って彼女は槙島の頭を撫でた。
「惜しいね、あと20年早く生まれてたら私好みだったのに」
Title by:休憩