6 | ナノ
※死ネタ・猟奇的表現あり

 私たちは互いに、その行為で欠落した感情を埋めようとした。私は愛されるよろこびを。あなたは愛するよろこびを。けれども、いくら素肌を重ね合わせてもそれは見つからなかった。もしかしたら最初からそんなものは、この世に存在しないのかもしれない。…

 私は槙島さんからくすねた剃刀の銀光をぼんやりと見つめながら、つい先ほど手紙にしたためた内容を思い返していた。刃先に親指の腹を押し当てると、皮膚はなんなく裂け、流血がくるくると円を描いた。
「人は遺書を書くとき、まず良質なペンと紙を買いに走るという。人生の最後を飾るには、やはり手記が一番だと誰もが知っている」
 ふいに背後から聞き慣れた声がして、私は溜息をついた。あれだけ近くで見てきたというのに、彼の第六感のおそろしさを、まだまだ見くびっていたらしい。彼にはきっとフロイトのいうタナトスを感じ取ることができるに違いない。
 私は振り向かずに言った。
「直筆だと、偽装を疑われにくいからですよ」
「それは人を殺す側の心理だ。もしくは、遺言(いごん)としたい場合の話だ。もしこれを遺言としたいなら、君の願いは、いわゆる死体損壊に問われる。もちろん僕がね」
 これ、という言葉で、彼がいま、私が書いて隠したはずの遺書を手に持っていることが確定した。それだけならまだしも、中身もすっかり読まれてしまったらしい。
 ますます、振り返るわけにはいかなくなってしまった。
「あなたなら問題ありません。“誰から裁かれることもない”でしょう。そもそも、それは罪ではありませんよ」
「確かに、カニバリズムは文化によって哀悼の意とされる場合もある」
「あなたが私を食べることによって示すのは、哀悼ではなく、愛です」
「発言に矛盾があるね。君は遺書のなかで、“もしかしたら最初からそんなものは、この世に存在しないのかもしれない”と書いている」
 紙のこすれる音が微塵もしなかった。おそらく彼は手紙を見ちゃいない。お得意の暗誦だ。書いた私だって、一字一句間違えずに、そらんじれるか自信がないというのに。
「他人に対する愛は、そうかもしれないと書いたに過ぎません。でも、自己に対する愛ならば、誰もが持っていると知っているでしょう? ナルシシズムではなく、最低限、自分の存在を維持する愛情です」
「自己保存だね。なるほど、君の言いたいことはわかった」
 “君の言いたいことはわかった”。
 嘘だ。私の主張を理解することは、問答を繰り返さなくとも、遺書を読んだ彼なら容易だったはずだ。しかし、彼はあえて問答した。なぜなら、私の主張を理解できなかったからだ。
 私はぎゅっと下唇を噛みしめた。血がにじんで、口内に鉄の味が広がった。このまま部屋中を私の血液で満たせたらいいのに。
「いつの日だったか、君は僕に質問したね。人はみな母親を食べて育つのではないのか、と。現代ではほとんど廃れてしまった習慣だが、もともと人の子は、家畜と同じく母乳で育つものだった。母乳というものは、母親の体内で生成され、分泌される。それを飲む子どもは、つまり母親の血や肉を食べているのと同義ではないのか。子どもは父親と母親から平等に染色体を受け継ぐが、どうしても母親に対するコンプレックスが大きくなるのは、生まれてから与えられる母親の命が、子どもに注がれていたころを本能的に覚えているからではないのか」
 確かにそれは、私の言った言葉だった。彼に伝えたのは、そう、とても古い記憶だったように思う。この疑問は私が何十年と抱いてきたものだったが、誰かに話したのは、唯一彼だけだった。それもたった一度だけ。本当に槙島さんの記憶能力には驚かされる。
 彼の脳内には、どうやら私に関する記憶が少なからず蓄積されているらしい。それを知れただけでも、涙が出るほどうれしかった。いつだって彼の高尚な精神はその引き締まった肉体の壁にさえぎられ、謎に包まれていた。手のひらで撫でても、強く押しても、その壁は私を中に通してはくれない。胸元に顔を埋めても、私の精神を彼の精神に潜りこませることはできない。
 私は、手に持った剃刀の存在を思い出した。
「やめたほうがいい」
 すぐに、彼の声が私の思考を妨げる。
「僕が、君の遺言を尊重するとでも思っているのかい」
 もちろんそう思いたかった。けれども、どんなに想像を膨らませても、彼が私の肉片や血液を口にする光景を、ついぞ思い浮かべることはできなかった。それでも私は信じるしかなかった。孤独という酸によって溶かされた私の胸の風穴は、冷たい風が吹く度に、ひゅーひゅーと哭いた。それが痛くて堪らなかった。いっそ死んでしまったほうが楽だと思うほどの、苦痛だった。
「私はあなたを愛しています…、あなただけを愛している。でも、どうやったって、あなたは私の愛を信じてくれない」
「僕が信じてくれない、愛してくれないから死んで、僕に自分を体内へ取りこめと言う。君が僕の身体を構成する一部になれば、自然と僕は君を愛することになるから。しかしそれは、君が僕のことを愛している証拠にはならない。君はただ、誰かに愛され、心に空いた風穴を埋めたかっただけだ。孤独から逃れたいだけだ。僕が君に“死ね”と命令したのなら、まだ望みはあったが」
 私は懇願した。
「命令してくれるんですか」
「しないよ」
「だと思った」
 望みは断たれた。
 私は、剃刀の刃をゆっくりと折りたたんだ。
「賢明な選択だ」
 その言葉と共に、近づいてくる足音がした。頭では逃げなければならないとわかっているのに、身体が言うことを聞かない。足の裏が固定されてしまったかのように、どうにも動かない。
 そうこうしているうちに、私は槙島さんに後ろから抱きすくめられた。後ろから伸びてきた白い手が、私の手に沿うように這い、片方は手を握り、もう片方は剃刀を奪い取った。私は背中で彼の体温を感じ、首筋で彼の吐息のあたたかさを感じた。彼は私の襟足を手ですくい、露わになった襟首に口づけた。ぞくりと身体が震え、私は一瞬だけ目をつむった。つぎに目を開けたときには、彼の手から剃刀が消えていた。
「単純な選択ですよ。私が自分の喉を切り裂くのと、あなたが私の手を払い落とすのとどちらが早いかなんて、考えるまでもない」
 私は最後まで、けして彼のほうを振り返らなかった。

 翌日の早朝。彼女は自室で自刃していた。
「やめたほうがいいと言ったのに」
 槙島は冷たくなった彼女の手から、血のこびりついた剃刀を拾い上げた。これが何度も自分の手元から消えていたことを、槙島は知っていた。そしていつの間にか元の場所に戻ってきているということも。何度も、何度も。彼女はつねに愛を渇望していた。
 刃にこびりついた血痕を親指の腹で撫ぜると、固結した血はぱらぱらと剥がれ落ちていった。こぼれ落ちる赤い砂は、朝日に照らされてきらきらと輝いた。血の一滴に至るまで、彼女の生命の炎が宿っているように見えた。
「君が本当に僕を愛していたのなら、苦しみに耐え、そばにいるべきだった」
 白いハンカチを取り出して、汚れた刃を拭う。するとすぐに剃刀はいつものように鋭い銀光を取り戻し、一方の白いハンカチは深紅に染まった。
「そうすればいつの日か…、いいや、そんな、まさかな」
 槙島は自嘲的な笑みを浮かべ、すっと目を閉じ、なにかに祈りを捧げるように天を仰いでから、だらんと垂らした手から、ハンカチと剃刀を放した。そしてその場で跪き、こうべを垂れて許しを請うように、彼女の喉元に、食らいついた。
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