6 | ナノ
「グソン、まきしまの帰りが遅いね。」
「そうですねぇ。ま、あの人のことですから今頃本でも読んでるんじゃないですか?ゆっくり。」
そうだね、とも、心配だね、とも何も言わず少女は窓の外を眺めるだけだ。その様は、まるで僕を侍らせる女王のようで。
ただ、女王というにはいじらし過ぎる。
「グソン、お腹が減ったね。」
「じゃあ、夕食がはいるくらいの軽食を、」
要らない、という風に首を振って真白なガラスに右の人差し指を這わす。ききき、と耳障りな音がそれぞれに沁みる。それに頓着した様子は無く、なにか文字を描くように少女は指を動かし続ける。男の義眼がちろりと覗いた。
「グソン、まきしまはただいまと言うかな。」
「…貴方が笑顔でおかえりと言えば、きっと返してくれるのでは?」
そこでゆっくりと、少女がこちらを向いた。口元には歪な三日月が浮かんでいる。
ただ一つ、槙島に染められなかった笑い方だ。
出来損ないの笑顔をうかべて、ソファに座る男に近付く。
「わたしは、そうは思わないな。」
「…そうですか。」
指の先の水滴を眺めながら、跪くように男の正面に膝を崩す。几帳面に短く切り揃えられた少女の髪が、体の動きに合わせてゆらめくのを男は閉じた瞼の奥で追う。
少女の美しい所作を、義眼で、偽の眼で感じたくはなかった。
「濡れちゃった。」
「だからって俺の服で…、やっぱり、いいです。」
濡れた指を男の左腕に滑らせ、一本の線をかく。上に昇るにつれ、霞み、かわく。
右手を男の左胸に押し付け、腿に頬を寄せ、しなだれる。
拒絶のようで、縋るような姿勢。
「、グソンは、わたしに何も求めないんだね。」
「…槙島さんに、殺されたくはないですからね。」
手の甲に、さらさらとした感触がくすぐったい。きっと、濡れ羽色の向日葵のように広がった少女の髪だ。少女は自分の髪を散らばらせるのが好きだった。一つ一つの自分が、大きな自分を囲う安心感が堪らないのだと、以前槙島に話していた。
不意に、槙島がこの少女を連れて来た時のことを思い出した。「これは僕らの計画の光だ。」と、あの人は確かに言った。
ならば、己の邪な心で穢してはなるまい。純白のままでいなければ、光は輝かないのだから。

もしも自分の声に少女が応じたら?きっと、タガが外れてしまうに違いない。

「グソンの眼は綺麗だね。正確には、閉じている時の方が。」
「そりゃあまた何故」
そう言うと、少女はまたぐにゃりと頬を歪めた。そういえば、槙島と居る時はこの笑い方をしないなと、少女の言葉を待ちながらぼんやり考えた。そして、槙島は唯一自分に染まらないこの笑みを嫌っていたのだと思い出す。
「抗おうとしているみたい。この世界が嫌、って。わたしとおんなじ。」
「…おなじ?」
ゆるゆると顔を上げた少女の、かつて濡れていた指が胸を伝い、首を撫ぜ、顎を掠め、瞼を覆う。
中途半端にぬくい温度が、歓喜を誘う。
「嫌いなのにね、まきしまはわたしが世界に愛されているって言うの。そんなの気持ち悪いよね。」
「、」
嫌っているものから好かれる。気持ち悪い。
それは、自分に対しての牽制なのだろうか。
「まきしまは、それでどうする?ってわたしに聞いたの。だから、まきしまはどうすればいいと思う?って聞き返したら此処に居た。」
「…俺はまだ死にたくないんですけどねえ…」
槙島なら、自分を殺すことだってありうる。それほどに、少女の有用性は大きいのだから。
「わたしが絶対殺させないよ、ふふ。」
「いい笑顔ですねえ」
瞼を覆う指を外させて、ゆっくりと少女を見つめる。何だかうすら寒くなる、槙島に教えられた笑顔を浮かべていた。
「っ、近いですよ。」
肩に手を当てて、く、と押し返す。細い鎖骨に手が震えそうになる。少女はそれまでの笑顔を消して、藍色の眼を爛々と輝かせて言葉を紡ぐ。
薄い唇の動きに眼を縫いとめられた。
「やっとグソンから言ってくれた。」
駄目だ。これ以上は駄目だ。頭がくらくらしてくる。
「グソンは、わたしに何も求めないんだね。」
「だから、槙島さんに「まきしまが関係なかったら、求めてくれるの?」っ」
もうやめてくれ。今までの努力は、一体。
「…俺が、貴方に何か求めたとして叶えてくれるんですか?」
頼むから、否定してくれ。
「当たり前だよ。…ふふ、グソンのこと大好きだもの。」
頬を赤らめて言うなんて、どこで学んできたんだ。
なけなしの理性で口を開いた。
「じゃあ、」
煩悩まみれのこの俺を、どうか殺してください。
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