6 | ナノ
槙島聖護はただの人間だった。少なくとも、私にとっては。

「また君の淹れた紅茶を飲みに行きたいな」

夜の街を背景に、銀色の絹糸のような髪の毛が夜風に吹かれている。贅沢な光景に見入っていた私はその言葉が自分に向けられたものだと気づき、そして、まるでその言葉は槙島くんの言う『また』が永遠に訪れないような言い方だと一抹の不安を抱いた。振り向いた槙島くんの顔は綺麗に微笑みを浮かべていたのに、その儚さを感じる微笑みの造りに私はただ言い表せない心苦しさを感じる。
「いつでも遊びに来て。でも、槙島くんは本ばっかり読んで私を放っておくから嫌い」、そう拗ねた口調でおどけると、彼は何も言わずに口元の笑みを深めた。ああ、どうして、夜になると槙島くんの姿は闇に溶けて消えてしまいそうに見えるのだろう。マンションが占めるここら一帯には明るいネオンや広告は無くて、電灯だけが物悲しく点滅している。遠くに見える、煌々と輝くノナタワーと街の中心部からの華やかな電飾が寂しさを助長していた。その寂しさから身を守るように槙島くんの手にそっと自分の指を絡める。

「いつ来ても、いいから」
「ああ。ありがとう」

私が槙島くんに向けたその言葉は、夜風に攫われてしまいそうなほど案外弱々しいもににしかならなかった。律儀に優しい声音で私に返してくれる槙島くんの後に、何と言ったらいいのか分からなくて、ただ薄く開きかけた唇を閉ざす。「……頭の傷、どうしたの」「ぶつけたんだ」「……槙島くんが?信憑性ないよ、それ」「本当だよ。もうあまり痛まないけどね」ねぇ、違うの、そんなことを話したいわけじゃない。胸の奥にどろどろと何かが溜まって息苦しくなる。何が悲しいかも理解できていないのに、目尻が潤んでくる。槙島くんならこのやるせなさに相応しい言葉を見つけられるかもしれないけれど、私には一生かかっても出来ない芸当だった。
槙島くんがその澄んだ眼差しでじっと本に書かれた文字の奥底を探ろうとしている姿が好きだ。その傍らに私と、私の紅茶を置いてくれることが何よりも幸福に感じた。槙島くんは自分で何かを書いたり発表することが無かった、彼ほどの知識人ならば本を一冊ぐらい書き上げることなど造作もなかっただろうに。
「僕自身のことはどうでもいい。僕は僕とは違う人間が何を考え、何を知り、何を結論づけたのかを理解したいんだ」、彼がそう言ったことを覚えている。その後に「君のことを知りたい」とそっと呟いたことで、私がいかに救われたか。槙島くんはきっと知らない。私は初めてこの世界に必要な存在として現れることができたように思った。
でもね、私は槙島くんのことが知りたいのに。

「私、槙島くんのことが好き」

ふっと唇の隙間からこぼれ落ちた。ごめんね、私はこんなありきたりな言葉しか口にすることができない。槙島くんの心に響くような素晴らしい一文を構築することはできない。それでも、歩く速度を落として私の横に並び、そっと口づけをつむじに落としてくれる槙島くんを私は優しいと思うのだ。

「僕は、物事への問い方を間違えたんじゃないかと、最近思うんだ。いや、今だからこそそう思うのかもしれないな」
「……まーた、難しい話」
「そんなにこわい顔をしないでくれよ。ただ、君を見ていると、僕は自分がまどろっこしい遠回りをしているように思えるんだ。人間の本質だなんていう途方もない題材を自分に課してきたけれど」
「……えー、んん、つまり?」
「目の前にいつもあった。君がさっき口にしたような、いつも僕にくれていた言葉の中に求めていた答えがあったのかもしれないって、それだけだよ」

深く思慮する槙島くんを私は尊敬しているけれど、私はいつか彼が自分自身の内側から生じた疑問に埋もれて窒息してしまうのではないかと怖くなる。もっと楽に生きる道もあるはずなのに、きっと槙島くんはそれを選ぼうとはしないのだ。槙島くん、ただ寂しいだけなんだよね、本当は。私は少しでも槙島くんの孤独を埋めてあげることができたのだろうか。槙島くんが、私の中の欠けていた何処かを埋めてくれたように。私は槙島くんの答えになりたかった。この愛おしい感情を、君の答えにしてほしかった。

「じゃあね。体を冷やさないように」
「うん。槙島くんも気をつけて」

するり、と指が解けて体温は遠ざかっていく。槙島くんの背中は、ノナタワーと街の彩りの人工の光の中へと消えていく。私が願うのは、ただ、また槙島くんに紅茶を出して彼の横でそっと目を瞑り寄り添うことだけ。こんな些細な願いごとなのに、私はそれが叶わないことを何となく分かっていた。苦しいよ。でも、槙島くんが私に与えてくれた苦しみはこんなにも愛おしい。どうか、私が君の心のどこかにいますように。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -