6 | ナノ
水面がちいさく揺れるたびに白い天井も僅かに歪む。こぽりと唇の端からこぼれ出たまるい泡は、つめたい明かりが滲む水面へと浮上して、まばたきをひとつする間に静かに弾けた。もうひとつ、ふたつ、続け様にこぼれる気泡は歪な形をとって水面へいそぐ。あたたかな湯のなかでそれらは苦しそうにもがいて、水面の向こう側にある酸素を求めているように見えた。わたしの脳も体も同じものを欲しているけれど、わたしの意志だけはそれを欲していない。
べつだん、このまま死んでしまっても構わないのだ。わたしの色相はとうに濁りきって犯罪係数も規定値を大幅に超え、もうまともに街を歩くことすらままならない。自分の家に帰ることも、友人や両親に会うことも、仕事をすることもすべて、今となっては叶わぬことだった。槙島に飼われるか、それとも公安に執行されるか。わたしは槙島に飼われることを選択したけれど、今になってその選択を後悔している。否定する行為をしている。槙島の用意した部屋で槙島の言うことを聞き、槙島に与えられた本を読み、ただ呼吸をすることの他にすることのない生活は、いとも簡単にわたしに過去の選択を否定させた。この先、槙島がわたしに飽きるか槙島が死ぬまで、数日か数か月か数年かは知らないけれど、とにかくそのときまでこうやって生きていくのなら死んだって構いやしない。そっと目蓋をおろしたらもうなにもみえなくなる。どうしようもなく苦しくて、まるで眠るようになんて言葉は似つかわしくないけれど、なぜだかわたしはひどく穏やかな気持ちだった。温かくて心地良い湯のなか生まれたままの姿で死んでゆくというのは、わりと悪い気分ではないのだ。
それから、意識がずいぶん深いところまで沈み込んで、ついに呼吸ができない苦しささえも薄れてきたときだ。ひやりとした人の手を脇に感じて、次の瞬間には湯のなかから引き出されれていた。あたたかな湯に塞がれていた呼吸器が空気のなかに晒されると、酸素が体内に取りこまれるのをありありと感じた。呼吸をしている。そうだ、呼吸をするというのはこういう感覚だったと、ほんの数分か数十秒か止めていただけのその行為に、懐かしさとほんの少しだけの親しみを覚えた。同時に、わたしの選択が再度否定されたような気がして不快だった。ぐるぐると呑気に思考しながら、酸素が回らなくなって朦朧としていた脳内は、次第にクリアになっていっているような気も、まだどこか靄がかかっているような気もする。靄の薄くなった視界の端に、細くて色素のない髪の毛が見え隠れしていた。
脇を掴まれて持ち上げられた体勢のまま鈍い頭痛と脱力感に任せて頭を垂れていると、腰掛けるような形で浴槽の縁へ乗せられる。すこしの水音と換気扇の音が妙に耳に馴染んだ。何か言おうとして湿った空気を肺に送り込んだけれど、言葉がみつからない。そっと顔を上げてみれば、槙島の目がわたしを見下ろしていた。そこで初めて、自分が一糸纏わぬ姿をしていることを思い出したのだけれど、だからといってどうするということもなく、槙島はそんなことなど微塵も気にしていないような顔をしている。槙島はわたしの両肩に手を置くと、幼い子に言い聞かせるような声音を響かせた。

「君は、自分が僕に飼われていると、そう思って、それが我慢ならなくて死のうとする。この生活は、君にとって屈辱か、それとも退屈かにしかならないらしい」

それからいつもの、うつくしい表情で槙島が口にしたせりふに、目を丸くせずにはいられなかった。

「これから風呂は僕と入ろうか」


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どうしてこんなことになっているのだろう。
わたしが背中に感じるのはつるりとしてかたい浴槽ではなく、張られた湯とはちがう温度を持った人の肌だった。言わずもがな、この人の肌とは槙島のものである。ぬるいお湯をなみなみと張った浴槽の中、一糸纏わぬふたつの肢体の輪郭は、ゆらゆらとして本来の形に定まらない。ぐにょりと、ずいぶん歪に揺れるものだなあと、そんなことを思った。槙島が唐突に口を開く。

「僕はね、君。君がどうにも惜しく思えてならないんだよ」

わけもわからず口をつぐんでいると、槙島は静かに、「それだけで十分だろう」と続けた。腹に腕が回され、片方の肩に人の頭の重量と纏わりつく湿ったほそい髪を感じる。後ろからやわらかに抱きすくめられている体勢は、まるで大切にされているように錯覚してしまう。
あたたかな温度と槙島の肌になぜだかひどくほっとして、もうすこしこのままでもいいと思った。
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