子作りでもしてみようか、そんな言葉をわたしの隣にいる人物が、息をするような自然なそれで発した。
わたしは驚きを露わに目を見張った。驚かないほうが無理というものだろう。
わたしは心の中で、向けれた言葉を反復する。一瞬、聞き間違えではないかと耳を疑うが、しかし、彼――槙島聖護――を目にした瞬間、嘘や冗談ではないことは直ぐに分かった。何故なら彼の目に映る色は真摯なそれが滲んでおり、口元に浮かべる笑みは嘲るようなそれではなかったからだ。
「あ、あの……?」
「ん?」
「子作りって」
「そのままの意味だよ」
「…………」
わたしは視線を彷徨させた。落ち着かない胸の高鳴りに叱咤しつつ、手元のカップに目を移す。
カップの中身は紅茶だ。彼が好んで飲んでいるダージリン。それをストレートで飲んでいるのだが、既に半分以上が減っている。残り僅かとなった紅茶の水面には、情けないというか、困っているというか、そんな顔をしたわたしが映っていた。
「槙島さん」
「何かな?」
「よく、意味が……」
彼とこうして肩を並べながら時間を共有するようになったのは、半年くらい前からだ。それまではこれといった接点はなく、ただ知人の知人という希薄な関係でしかなかった。だが、どういうわけか、数回顔を合わせて、数える程度の会話しか交えていないのに、どういうわけか興味をもたれてしまった。何がきっかけだったのか、どういう経緯で彼の興味を惹いてしまったのかは未だに分かっていない。何かしらの要因か因果によって妙な変化をもたらしてしまったとしか言いようがなかった。
まあ、わたしのような凡人がいくら彼のことを考えようとも理解することは一生叶わないだろうが。
わたしは思考を巡らせながら、カップをテーブルに置き、彼を視界に捉えた。彼は涼しげな顔をして、見惚れてしまうほどの良い笑顔を貼り付けている。けれども、それはわたしが良く知る作り笑いではなく、彼が心から笑っているのだと窺い知れる。先程以上に彼の言葉に重みが増した気がした。きっと気のせいではないだろう。
「これでもストレートに言ったつもりだったんだけど…」
「…………」
黙するわたしに彼はやれやれと大袈裟に肩を落とした。
「僕は君と子作りしたい。結婚は……まあ、難しいかもしれないけど、君が望むなら形だけでもしてもいいと思ってるよ」
わたしは瞬きを忘れて、食い入るように彼を見つめる。
「どうかな?」
「……け、結婚……」
「そう。結婚」
「……子供……」
「一番の目的はそれだ。僕は僕と君の子供がほしい」
彼はにっこり笑った。
「なまえに似た女の子がいいな」
そう言って、彼はわたしに手を伸ばした。わたしはその手を視線で追いかける。そして、辿り着いた先はわたしの頬。彼はわたしの頬を指先で撫でると、輪郭を確かめるように滑らせ、上唇と下唇を辿り、その指を顎に掛けて、くいっと持ち上げた。
わたしは彼を見上げる形でおそるおそると、何かを探るような目で彼の顔を瞳の中に映した。
やはり彼の表情は穏やかだった。普段のそれとは全く違う。違和感さえ覚えるほどで、彼の目には慈しみさえ浮かんでいるように見えた。
わたしは戸惑った。今まで向けられたことのない感情に慌てることしかできなかった。
「なまえは僕と子供を作るのは嫌かい?」
「っ……」
わたしは息を飲んだ。彼を見つめながら、何か言わなければと口を開こうとする。だが、言葉が出てこない。いや、言葉が浮かばなかった。何も答えられなかったのだ。そんなわたしを見た彼は、少し寂しそうに薄く口元を緩めた。
「沈黙は肯定ってことかな…」
「っ! ぁ……ちが!」
わたしは咄嗟に否定した。
「違い、ます……。嫌とかじゃなくて……その、」
「…………」
沈黙が痛い。彼の視線が痛い。空気が重い。押し潰されそうだ。
わたしは視線を覚束なく左右させて、少し経ってからようやく口を開いた。
「嫌、じゃない…です。でも……子供…とか、よく分からなくて」
「どうして?」
「だって、わたしが母親になるんですよね」
「そうだね」
「それがちょっと……想像できないというか。ちゃんと子育てができるのかなとか、そういうことを考えちゃうから……その、やっぱり……よく分からないです」
「まあ、いきなり言われればそうかもしれないね。でも、君はいい母親になると思うよ。あとはそうだね、いい妻にもなりそうだ」
「つ……妻?!」
驚きのあまり声が裏返る。わたしは金魚のように口をぱくぱくとさせた。きっとわたしの顔は見事なまでに真っ赤に違いない。
「ねえ、なまえ」
「は、はいっ」
「君が迷ってるみたいだから時間をあげようかと思ったんだけど、」
是非そうしてください、と心の中で大きく頷く。けれども、続け様に発せられた言葉にその期待は大きく裏切られることになった。
「僕はそこまで気が長いほうじゃないんだ。君の決心がつくのがいつかも分からないし、だったら既成事実は作っておくべきだよね」
「え、え、え……っ!?」
「考えるのは子供ができてからにしようか」
「ちょ、」
彼はわたしの言葉を遮り、顎に指をかけたまま、わたしの唇を奪った。唇と唇が重なり合う。わたしは鼻で呼吸しながら、彼の衣服に手をかけて、きゅっと握り締める。そして、何度か唇を吸われ、それに満足した彼はそっと唇を離した。わたしは睫を震わせながら瞼を上げる。すると、眼前に映し出された彼はどこか楽しげに目を眇めていた。
「キスだけでこんなになるなんてね」
「……ぁ、」
彼の手が顎から髪へと移動する。そして、彼はわたしの髪を梳きながら「ソファがいい? それともベッド?」と問うてきた。わたしは息を詰まらせた。
「選ぶ権利くらいあげるよ」
「拒否権は……」
「もちろんないよ」
「…………」
「さあ、どうする? 決められないならここでするけど」
「ベ、」
「ベ?」
「ベッドで……お願いします」
わたしの言葉に満足した彼はわたしを抱き上げた。所謂お姫様だっこというやつだ。
「じゃあ、行こうか」
言って、彼は寝室へと向かう。彼が一歩進む度に近付いていく寝室。わたしの心臓はパンク寸前だ。耳の奥でドキドキと早鐘を打っている。全く鳴り止む気配がない。
「……あの、お、重くないですか…? わたし、自分でも歩けますけど…」
「大丈夫だよ」
「ぅ、」
彼に綺麗な笑みを向けられ、わたしは何も言えずに視線を伏せる。
「緊張してるのかな?」
「?」
「本当に、君は見ていて飽きないね」
「え、」
「愛しているよ」
「っ……」
「君と子作りして子供が欲しいって思うくらい、君を愛しているよ」
その言葉にわたしは唇を戦慄かせると、彼の首に腕を回した。そして「わたしも」と小さく呟いて、ぎゅっと抱き付く。
「なまえ?」
「わたしも……大好きです。愛してます」
わたしはその言葉を言いながら彼の肩に額を押し付ける。すると、耳元に彼の微かな吐息が掛かり、彼が笑みを零したのが分かった。
「嬉しいよ」
「槙島さん……」
「じゃあ、これからいっぱい励もう」
「へ?」
瞬間、寝室のドアが開けられた。眼前にベッドが飛び込んでくる。わたしは息を詰めると、覚悟を決め込み、小さくこくりと頷いた。