5 | ナノ
はじめて狡噛慎也という人間を目にしたのは、中等学校の入学式のときだった。彼は新入生代表だった。檀上で堂々と答辞を読み上げる彼を見て、わたしは何を感じて何を考えていたのか、今はもう忘れてしまった。けれど、変声期だったらしい彼の掠れ気味の声や、今よりすこしやわらかくてたしかに強い瞳は、よく覚えている。
彼と対面したのは、それから一年後、わたしと彼が二学年に進級したときだった。席が隣同士になって、お互いにぎこちなく会釈だけをした。彼が薄く開きかけた唇を結んだから、わたしも口を閉ざして、彼とわたしは一言も言葉を交わそうとはしなかった。
彼の口からわたしへ向けた言葉が吐き出されたのは、更に一年後のことだった。はじめて彼に名前を呼ばれた。彼の変声期はとっくの昔に終わっていて、今とさほど変わらない低音に鼓膜が震えた。芯の通った、耳に心地良い声だった。彼はわたしのことがすきだと言った。それはあまりに唐突で、わたしの呼吸を止めるには十分すぎる台詞だった。







「ねえ、狡噛」


狡噛の自室、彼はいつものトレーニングを終えて、今は水分を体内に行き渡らせることに専念しているところだった。汗の伝う喉がごくり、ごくりと動いて、なんだか心臓みたいだと思う。ベッドに勝手に寝転がっているわたしに目をやると、狡噛はわたしのすぐ横に腰掛けた。


「どうした?」


狡噛はわたしの頭をくしゃくしゃと撫でる。ひどくやさしい声や表情に、狡噛にすきだと言われたときみたいに、呼吸が止まった。


「…なんでもない」


狡噛はなんでわたしにすきだって言ったのと、ずっとそう訊きたくて、胸に閉じ込めたまま訊けずにいる。狡噛の告白はあまりに唐突だったし、女の子なんか選り取り見取りだった彼がどうしてわたしなんかを好きだと言ったのか。考えれば考えるほど解せないのだ。幾度となく抱擁を交わし唇を合わせたし、体を交えもした。けれど、答えが出ることはない。
わたしと狡噛が中等学校を卒業しても、訓練施設を卒業しても、監視官になっても、それはわたしを燻り続ける。佐々山さんが殺され狡噛が執行官に降格してからは、更に訊きづらくなってしまった。標本事件当初などは、声を掛けることすら満足にできなかったのだ。ここ2年程は随分ましになったけれど、狡噛の瞳はすっかり鋭い形を覚えてしまった。たまに見せる獣のようなそれに、わたしは未だ慣れずにいる。狡噛は狡噛なのに、どこか別のひとになってしまったようで、こわかった。狡噛が狡噛じゃなくなって、わたしのことをすきではなくなってしまったのではないのかと。そう思うと、なんでわたしにすきだと言ったのかなんて、とても訊けなかった。わたしの息を止めるその声で、わたしの心臓まで止めないでほしい。


「なんでもなくないだろ、そんな顔してる」
「してない」
「してるんだよ、分かる」
「どうして」


それはな、と言うと狡噛は仰向けになったわたしの額に唇を落とす。湿ったつめたい唇が額にふれて、喉がひくりと蠢いた。


「お前のことだからな」
「は」
「好きな女のことくらい、分かってやれなくてどうする」


狡噛はもう一度わたしの頭をくしゃりと撫でる。なんだこれ、ずるい。もう、こいつがなんでわたしにすきがと言ったのかなんて、どうでもいいかもしれない。いつの間にかわたしに覆い被さっている狡噛の目は獣のようで、けれどよく見れば、昔とぜんぜんかわっていない。狡噛の唇がこんどはわたしの唇に降ってきて、物理的な酸欠に襲われる。それがなんだか心地良くて、わたしはそっと目を閉じた。
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