5 | ナノ
「こんにちは、狡噛くん」


なんの香水をつけているのか、はたまたシャンプーやリンスの香りなのか、彼女が来るといつも甘い香りがした。煙草だとか人の血だとか金属だとかそんなものを一切忘れられるような。それは学生時代から変わらなくて。本を片手に論じ合っていた時期から今こうして笑いあっている時まで。きっと俺は他の誰かに心惹かれる度、彼女を思い出して、それ以上の関係にはならなかったのだろう。

出会いは俺の方が早かった。彼女と共に学び、共に成長した。お互い才能というか何というか、人よりも秀でたものが随分とあったから所謂エリートと呼ばれる職に就くこととなり、俺は公安局、彼女は厚生省へ。つまり俺は現場、彼女はお役所。でもそれでいいと思ったし、それが間違っているとも思わなかった。現場は机で空想していたよりも凄惨な場面が多かったから。彼女じゃなくて俺に適正があったのも当然だろう。


「久しぶりにご飯行かない?」

「ああ。ただ近くだと明後日しか時間がなくて、一人同僚と約束があるから……そいつも一緒で構わないか?」

「うん、残念なことに私の友達は全滅だから合コンにはならないけど」


そんなやり取りをしたのがそもそもの始まりだった。味で評判のある和食屋に三人で入り、自己紹介もそこそこに元々お喋りだった彼女を中心にその一日は過ぎて行った。
それから何故か俺達三人で食事に行く回数が増えた。「宜野座くんも呼ぼうよ。狡噛くんが仕事してる話とか聞くの楽しいし」そんなことを言われ、馬鹿正直に俺はギノも誘った。今になって思う。こんなことしなきゃよかったと。そうすれば彼女とギノが親交を深めることもなく、更に言うならギノが彼女に指輪を贈るような関係にもならなかっただろう。


「……聞いたの、宜野座くんから。執行官になったんだってね」


あの時、厚生省で培ったコネを総動員して彼女は俺に会いにきてくれた。それは共に学んだ友人を心配してくれただけで、彼女にそれ以上の感情がないことは明らかだった。
「大丈夫。狡噛くんならきっと大丈夫だよ。また一緒にご飯行こうね」ガラス越しに俺を元気付けてくれた彼女に俺はこんなにも想いを募らせているというのに。

執行官に降格したことを悔やんではいない。佐々山のあの事件はそんなこともあったな、なんていう一言で片付けていいものではないんだ。あの事件を追って、色相が濁り、最終的に執行官になってしまったことは後悔していない。ただ、一つ悔やんでいることがあるとすれば気持ちを伝えられなかったことだ。ずっと気になっていて、でも俺なんかが側にいてはいけない存在だからと自分に言い聞かせて逃げていた。このままの距離でいいんだと自分を納得させていた。執行官になった今だから思う。どんな答えが返ってくるにせよ、伝えておけば良かったと。せめてギノからもらった指輪をはめて俺のところに嬉しそうな様子で報告しにくる前に。


「またタバコ吸ってる」

「癖なんだよ」

「身体に悪いよ?」

「こんなことでどうにかなるヤワな作りじゃないんでな」

「そう言われると、何も言い返せないなあ」


ギノに会いにきた後は必ず俺のところにも顔を出しにくる。ギノの様子から何となく日時は予想できるからいつもその時は部屋から逃げて一人で煙を吐き出している。二人の様子を見たくないというよりも、彼女が俺のことを探してくれるのが嬉しかった。二人きりで話せるのが嬉しかった。


「最近何かあった?」

「何かって?」

「なんか……様子がおかしいから。また征陸さんともめたのかなあって」

「それもあるかもしれないが……新人と少しやりあったらしい」

「新人?って、朱ちゃん?」

「知ってるのか?」

「成績トップクラスの子が監視官になったって厚生省でも有名なの。狡噛くんみたいだねって同期でも話してたんだよ」

「俺みたい?」

「うん。二人とも他の道もあったのに、辛い方に進んでる。かっこいいよ」

「……少なくとも俺は、そんなかっこいいもんじゃないな」

「私には十分かっこよく映ってますから。だからいつまでも心身共にかっこいい狡噛くんでいてもらうために、タバコの量減らしてほしいんだけど?」

「そこに繋げるか」

「繋げました」

「考えとく」

「そういう時の狡噛くんは大体してくれないんだよねえ。まったく。あ、じゃあ私そろそろ行かないと」

「出口まで送るか?」

「ううん、平気。ありがとね。それじゃあまた」


ヒラヒラと手を振って、ふわりとまたあの甘い香りを漂わせて、彼女は去って行った。さっきまで俺の周りにあったはずの煙なんてなかったかのように、俺の嗅覚はただそれだけを感じ取っていた。
背中が見えなくなって、次会った時にでも想いを告げようかを悩む。毎回のことだ。そしていつも断念する。それもいつものことだ。いつかこの想いはなくなるはずだから。それまで俺が耐えていればいいだけだ。ギノと彼女の関係をぶち壊すようなことはしたくない。「なまえ」名前を呼んでみても返事はなかった。当たり前か。彼女はとうにいなくなっているのだから。


「好きだ」


たった三文字。それだけなのに。彼女を前にして言うことも叶わない。もう一本吸って心を落ち着けてから仕事に戻ろうと新しい煙草に火をつけた。
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