5 | ナノ
 さようなら、は左様ならばの“ば”が省略された挨拶。さあらば、左様ならば、そうならなければならないならば。別れを不可避なものとして抗うことなくあっさりと諦め、受け入れる。こうした意を持つ挨拶を使用する国は少なく、日本人の死生観に関係があると、どこかの本だかコラムだかに書いてあった。私はこれを知った時、何と切なく、潔く、美しいのだろうかと思った。さようなら、この言葉を誰にも伝えることのできなかった貴方は、少しのタイムラグを経て、私だけに遺して行った。


「なまえ」

 優しく呼ぶその声で目が覚めた。
 


 暗い、そう思った。すぐ横に置いたデジタル時計で時刻を確認すると、まだ夜と夜の真ん中の頃だった。部屋には誰も居ない、私一人だけの空間。いつもと同じ自室。

 誰かに呼び起こされた、そんな気がしたがいくら耳を澄まそうとも自分の息遣いしか聞こえないし、他人の気配も感じなかった。喉の渇きをおぼえてベッドから起き上がる。寝不足による気怠さで身体がふらついた。シワのよったシーツを見て、帰ってきたらちゃんと布団にくるまって眠ろう、そんな風にぼんやり思った。

 

 リビングへと向けた足取りは重く、気分は最低だった。まるで悪い夢でも見たあとのようだが、そもそも夢を見た記憶がない。リビングから広がる窓に目をやるとネオンを灯したビル群、それとほんの少し欠けた月が見えた。
うすらさむい室内を横切り、台所へ。部屋は暗いままに、明るくはしたくなかった。冷蔵庫を開けるとオレンジ色の光が漏れ落ちた。手近のグラスをとり、灯りのもとで水を注ぐ。ふと何か大きな記憶が欠落していることに気がつき、なんだっただろうかと思い出そうとするが一向に思い出せない。一生懸命記憶を探ろうとすればするほどなんだかソレは遠のいていくようで、自然と眉根がよるのを感じた。





「こえー顔」


 突然の静寂を破る明るい声に心臓が大きく飛びはねた。手からグラスが離れてしまった。ゴン、床にあたり裸足の足に水が飛ぶ。冷たい。音から察するに幸いグラスは割れなかったらしい。一連の流れを見ていた彼は広がった水たまりにむけて「あーあ」と呆れたように呟いた。


「どうし…て」

 口から溢れ出た。足元の水はやはり冷たい。グラスの事なんか、はなから頭にはのぼらず、それよりも急に現れた目の前の男の方に視線は釘付けだった。


 誰も居ないと思っていた空間は実はそうではなかったらしい。いつもの着崩したスーツに前髪をピンで留めた頭。ポケットに手を突っ込んでにかっと笑う男は紛れもなく縢で、相も変わらず楽しそうに、まるで最初からそこに居たかのように立っている。


「おまえ物騒だな。まぁ此処は一応公安局内だから安心っちゃあ安心だけど、流石に寝るときくらいは鍵閉めといたほうがいいぜ?」

 俺みたいに入ってきちゃう奴が居たらどうするのと、自分のことを棚に上げつつおどけて言われた言葉を受けて、今度は施錠をしていなかったという自分の行動が信じられなかった。


「まさか…、」
「よかったね、腐れ友達の男で」

 明るく言うコイツを注意深く見る。嘘をついているようにはみえない。彼が嘘をつく理由も無い。そう思うと、そんな失態をしてしまう程疲れていた自分に軽くショックを感じ、入ってきたのが彼でよかったと心底思った。

 瞬間頭に刺すような頭痛が走った。「うっ」と呻き声が出て思わず頭を抱える。くらくらし、頭がぐるぐる回る。一瞬なにか見たような気がした。「ちがうよ」、続いてそんな声が頭に響いた。…なにが違うの?



「大丈夫か?」

 静かな声がした。瞳をあけると不安げに自分の顔をのぞく、彼の瞳がうつった。

「大丈夫」

 顔を上げて答える。鋭い痛みは一瞬で過ぎ去った。なんだったのだろう、今のは。不思議に思ったがそんな疑問は痛みと共に直ぐに消え、再び縢の方に思考がもどった。


「それより、なんか用事?」

 彼とはまだ執行官になる以前、施設にいた頃からの古い友人だ。配属された後も同じ一係で、それ故に誰よりもお互いのことをよく知っていた。それこそ人には言って欲しくない子供の頃の恥ずかしい記憶でさえ奴は覚えている。彼の影響を受けたからなのか趣味がゲームなのも同じで、多くの時間を過ごしてきた。確かに遊びに興じて彼の部屋に泊まってしまうこともあった。だがこんなふうに、しかも夜中に彼が訪ねてきたことなど一度もなかった。彼の格好はふざけてるほど着崩した仕事着のままだし、こんな時間に来るくらいなのだから何か急な、しかも深刻な問題でもあったのだろうか。そう思って尋ねたのだが、当の本人はきょとんとまるで子供の様に不思議そうな顔をした。そんな顔をされては聞いた此方の方が悪かったように思えて困ってしまう。何か言おうかと口を開けた矢先、彼はまたにっこりと笑顔を見せた。それを見て私は再び口を閉じた。


「なんか、急になまえに会いたくなったから…、とか?」
 
 首をかしげ、いつものように歯を見せる笑いをしながら縢はそう言った。なぜ最後が疑問形なのと思ったが、なるほどそういう日もあるかもしれないと、取り敢えず自分を納得させた。なにせ最早家族や兄妹のように過ごしてきた相手なのだ。もしかしたら久々に寂しさでも感じて話し相手に、と訪ねてきたのかもしれない。そう思うと嬉しかった。ニシシ、と子供のように明るく笑う彼を見ていたらどうしてか久しぶりに自分が彼と話してるような可笑しな感覚がした。もう随分長いこと会っていなかったような、そんな感覚。

 急に訳も分からない安堵感が胸に溢れ、泣き出しそうになった。彼が本当にそこに居るのか、抱き締めて確かめたいという衝動に駆られた。自分の中で生じる脈絡のない激しい思いに戸惑っていると、ピリリ、今度は軽い痛みが頭に走った。「ちがうよ」…まただ。

 
 困惑する私の様子に気がついたのか、滕は私の腕をとってリビングに連れて行った。ソファに座るよう促し、それから滕も横に座った。


「あっ、電気つけようか」
「ん?ああ。いいって、座ってろよ、俺がつける。」


 ネオンと月光だけでは暗い、電気を点けに行こうとすると、縢はそう言って代わりにスイッチを点けに再び立ち上がった。パチンと点灯させた彼の手を見て、酷く冷たかったな、と掴まれた時に感じたことを思った。




 新しく注いだ水を一口ふくむ。彼にも何か飲まないかとすすめたが「俺はいいや」と言われた。暫く何も話さない時間が続いた。夜はふかまり、気づけば少し月が移動していた。




 ただ彼が今隣に居る事が何故だかとても嬉しかった。彼の存在にひどく安心している自分が居る。


「なまえ、」
「ん、」

 ふと、縢が呼ぶ。覚えているはずもないと思っていた、さっき起きる直前に聞いた声と似ているような気がした。


「お前さ、今日が誕生日なの覚えてる?」
「…あ、」


 そういえばそうだった、と彼の言葉で自分の誕生日を思いだした私を横目に、彼は「やっぱりなー」と、可笑しそうに笑った。


「忘れてた」
「お前って、いっつもそう。」
「うん、」
「…施設ん時に初めてお前と話したのも、お前の誕生日だった」



 驚いた。滕が私と出会った日のことをそういう風に覚えていたこともだが、それよりも彼が施設に居た頃の事を口にした事に、だ。今まで、彼があの頃の事を思い出の如く話すことはふたりきりの時でさえ無かった。


 思わず視線をやった。そして再び驚いた。彼の横顔が今迄見たことがないほどに優しかったから。どこか遠くの景色を見つめているようなその瞳はひどく穏やかだった。…なんだか彼が来てから驚くことばかりが続く。


「あん時はまだお前、新入りでホント弱そうで、逆にコイツが潜在犯ならどんだけ裏っ側恐ろしいんだって思うくらいだったのに…いつの間にこうして一人前に執行官やれる程逞しくなったんだか」
「…縢の教育の賜物だよ」


 久々に彼の名前を口にした気がするのは何故なのだろうか。

 彼は吹き出し、喉を鳴らして笑った。

「なぁ、いっろんなことやったよな。一係に来てコウちゃんたちとやるようになってからもさ。…偶にキレたギノさんが地味に怖かったケド」
「前に一度だけギノさんの眼鏡を隠したとき、あれは本当に怖かった」
「あぁ、…ククッ…鬼に見えたな」
「見つかった時思わず、老眼か調べたくて、なんて言っちゃったよ。」
「コウちゃん大笑いしてたな」


 明日だって二人共仕事で、お互い会える筈なのに、ずっとこうして一緒にいたいと思った。この時間が永遠に続いてくれたらと、滕の側に居たいと願った。






 夜はふけていく。その瞬間は唐突に訪れた。

 ふとローテーブルに覚えのないフィギュアが在ることに気がつく。どうして気がつかなかったのか不思議に思いそれを手にした。眺めるうち、これは私のというよりも縢のという方が合っている、そう思ってしまった途端、急に霧が晴れたかの様に全てがはっきりと見えた。バッと勢いよく滕の方を見ると、彼は変わらずそこに居た。


「ん、どうかしたか。」

 未だに頭の中は混乱していた。だが彼はそんな私とは違い穏やかで、優しく笑いかけていた。唇が震えて、涙が零れそうになった。彼は変わらずに其処に居る。まるでずっとそうだったかのように。

「なまえ」

「…縢、」

 夢だったのだろうか。全部悪い夢、とても最悪な夢を私はずっと見ていたの、そう思ってしまいたかった。

 縢は膝に肘をつき、前のめりに私の顔をのぞくように見た。

「なまえ]
「ん、」


 私の名を呼ぶその声を記憶に焼きつけたい。


 彼が、居る。彼が居るのだ。


「ありがとう」
「…かがり?」

 なにに対するありがとうなの、首をかしげて促すように縢を見る。彼は続けた。

「俺、お前に救われてたんだよ。…一人だと思ってた。一係来て初めて居場所を見つけたと思った。コウちゃんやギノザさん達に出会って、初めて認めてくれる人と出会えた気がした。とっつぁんや、六合塚、朱ちゃん、施設に居たら絶対会えなかった仲間たちと過ごせた。でも、」


 縢が私を見た。


 息がとまる。聞きたくない、聞けば終わってしまうよ。そう思う一方で、私はなにもせず、彼を見つめていた。





「何よりなまえ、お前が一番最初に俺を救ってくれた。」





 あぁ、

 ダメだった。





 せっかく自分を騙そうとした矢先、彼はそれをやんわりと阻止した。


「秀星!」

 彼の手を握る。先ほどと同様、やっぱり冷たかった。

 秀星の瞳が、生きる私の姿をうつした。その色は、とても力強かった。


「なまえ、」


 笑う。

「ありがとう」

 言葉はしっかりと音になり、私の耳に届いた。

「さよなら」






 らしくない言葉を遺し、夢のなかの彼は行ってしまった。
 
 とびきり明るい、彼らしい笑顔だった。





 目が覚めると、街には既に朝日が顔を覗かしていた。あの日から一年が過ぎたのだ。

 私の「ありがとう」は彼にちゃんと伝わっただろうか。


「さよなら、またね」

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