5 | ナノ
昼と夜の区別がつかない、執行官宿舎の薄暗い通路。この先になまえの部屋がある。今はすっかり珍しくなった紙の本のせいで慢性的に散らかったそこは、時代に取り残された古城だ。なまえには、部屋の扉をロックする習慣がない。どうせ顔見知りの監視官か執行官しかいない、だからここの安全性は信頼に値する、それが彼女の言い分だ。もっとも、これは詭弁だと本人も自覚した上での発言だろう。彼女の言葉を利用して勝手に上がり込んだ俺は、背丈より高い本棚を横目に人影を探す。

「なまえ」

呼び慣れた名前を呼んでも返事はない。明かりは一つ、奥の部屋からぼんやりと漏れているだけだ。足元に注意しながら、溜め息混じりで奥の部屋へと歩いていく。脱ぎ捨てられたヒールと上着は放置され、書籍はしおりを挟んだまま山積みになっていた。だらしない性格だが、本人は直す気もないらしい。少しは部屋の掃除をしたらどうだと促せば、客人を招き入れるわけじゃないんだからと突っぱねる。それでも俺は、彼女のどうしようもない部分を嫌悪することができなかった。

小さなベッドと古びたデスクが並ぶ、ホロ内装を施さない寝室。冷めたコーヒーや書類、本を広げっぱなしのデスクはお決まりの光景だ。隣のベッドに視線を映すと、なまえは案の定そこにいた。頭からつま先まで毛布にくるまり、マットレスの上で縮こまるように丸まっている。こんなに近寄っても気づかないほど眠りは深いのだろう。とはいえ、眠っているならそれでよかった。今夜は約束があって会いに来たわけではない。ただ、彼女が本当に眠れているのか確かめたかっただけだ。ベッドの前で、頭と思われる位置から徐々に毛布をめくっていく。なまえは規則正しい寝息を立てていたが、突然身体を震わせた。

「…ギノ、」

おそらく寝言であろう言葉が、やけにはっきりと脳裏で反芻する。学生の頃から慣れ親しんできた呼び方を捨てられないのは、俺だけではないらしい。悪夢にでもうなされているのか、なまえは眉を寄せて顔をしかめた。起こしてやったほうがいいのかもしれない。そう思い、改めて呼びかけようとしたときだった。

「ギノ、っ!」

張り裂けそうな声を上げたなまえは、俺の腕を掴んで勢いよく起き上がる。一瞬の出来事だが、俺以上に彼女自身のほうが驚いた様子だった。我に返ったなまえは、言葉を選びながらぼそぼそと話し出す。

「あ…狡噛」
「起きたか」
「うん…その、ごめん」
「何がだ」
「狡噛が来てたのに、寝ちゃってて」
「別に構わないさ」
「何か用があったんじゃないの?」
「用はない」
「じゃあ、どうして…」

そこまで話し終えると、なまえは俺の顔を見て察したのか、腕を掴んでいた手をゆっくり離した。

「今日の現場か。肝心なところで鼻が利かないなんて、猟犬失格だよね」
「あんたの仕事は犯人を確保することだ、飼い主を護ることじゃない」
「わかってる」

だから余計に辛い。なまえはそう呟き、手を持て余しながら項垂れる。よくある話だ。捜査の途中で二手に分かれるのも、監視官が現場で負傷するのも、執行官が己の非力さを悔やむのも。港区の高級マンションでエリアストレスの上昇を感知し、現場に向かってからまだ半日も経っていない。違法なメディカルトリップを服用する一般人の集まりを摘発している最中、それは起こった。逃げ惑う奴らの中で、立ち止まったまま笑っている男が一人。男はメディカルトリップで気が大きくなっていたのか、ポケットからナイフを取り出した。ここまでならまだいい。次の瞬間、男は実力行使に出た。対象はたまたま目についたであろう監視官、即ちギノだ。事態は急転し、ナイフの切っ先は躊躇いなくギノの皮膚を裂く。幸い軽傷で済んだものの、騒ぎが収まってからギノと合流したなまえはこっそりと表情を曇らせた。忠誠を誓っても、飼い主を護れるとは限らない。猟犬であるが番犬ではない、それが俺やなまえの立ち位置だ。シビュラシステムが配偶者を決める現代において、執行官はその遺伝子を残すべきではないと考えられている。ましてや監視官と執行官が結ばれるなんて、システム上絶対に有り得ない。だが、叶わないと知っていても強請ってしまうのが人ならぬ獣の性なのだろう。待ち構えている浅はかな未来で、報われなくても思いを馳せる。それは茨の道だと、誰に尋ねたわけでもないのに知っていた。相手が執行官とはいえ、俺も似た思いを抱え込んでいる。恋とも愛とも言い難いのに、何より優先させようとしてしまう。感情の出所を理解するのと同時に、この思いに名前をつけるなら。

「疲れたら眠れるのか」
「そうだけど…狡噛?」

ベッドに手をつけば、安いスプリングが音を立てて軋んだ。なまえの匂いがする。甘いそれを嗅ぎ分けるように柔らかな首筋まで鼻を近づけると、なまえの身体はぐらりと倒れてしまった。獲物は牙の届くところにある。獣じみた悪戯心に負けた俺は、なまえの滑らかな肌をそっと噛んだ。

「狡噛、っ」
「嫌なら逃げろ」

噛み痕こそ残っていないが、痛みを覚えさせたところに口づけてみる。なまえは逃げない。拒まれることの辛さを知っている人間が、逃げられるはずもない。本の山と同じで、一度崩れてしまえば後は簡単だ。邪魔なものは全部、取り払ってしまえばいい。肌と肌が触れた場所だけが本物だ。甘い声を殺し、二人で湿った息を吐く。熱が絡み合って、互いの芯を疼かせる。こいつは俺を求めているわけじゃない。それでも今この瞬間だけは、十分満たされている。醜く生まれ変わるのだ。シーツの中で、猟犬は猛獣に。

三流の官能小説にもならない繋がりは、二人共果てるまで繰り返された。ベッドが軋む音も止み、静寂が鼓膜に響く頃、ベッドの上で丸まって眠るなまえの頭をさりげなく撫でてやる。身体が冷えてしまわないように毛布をかけ直してやれば、コイツは俺の胸元に頭を押しつけてきた。命令されたわけでもないのに飼い主に純潔を誓うなんて、どうかしているとしか言いようがない。俺達は、やはり獣だ。獣同志でしか舐め合えない傷を持つ、何かが欠けた存在なのだ。

飼い主に隠し事をしたまま、猟犬は生きていけるだろうか。今まで通り餌をもらうことも、懐くこともできずに、役目を失うそのときを待つしかない。啓示に等しい、終わりの日を。この背徳を知るのは、二人の汗を吸ったシーツだけだ。いつか必ずやってくる結末を思い、丁寧に目を瞑る。視界はすぐに白とも黒とも言えない色に染まり、意識と一緒に薄れていった。
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