5 | ナノ
早くに両親を無くした私と弟は母方の祖父母と暮らしていた。祖父は日本人、祖母はイギリス人である。
紛争時代のイギリスで祖母は生まれた。当時の祖父はタイプライター修理師としてイギリスに滞在していた頃に祖母と出会ったという。

2月14日は祖父の誕生日。
毎年その日になると祖母は必ずチョコレートブラウニーを作り誕生日を祝っていた。祖父はそのブラウニーが大好きだった。
イギリス人のケーキなんて不思議な色をしているから食欲が失せる!なんて誰かが言っていたけれど祖母のケーキはシンプルで素朴でとても美味しい。
祖父が言うには“自分は味音痴だから美味しく感じるだけ”と笑いながら言っていたけど私には祖父の日本人の口に合うようにアレンジしてくれているんだって思った。
だって私は祖母に料理を教えてもらっていたから。
そして祖父が亡くなっても祖母は毎年必ず2月14日にブラウニーを作って誕生日を祝っていた。
なぜバースデーケーキがブラウニーなのかって?2月14日はバレンタインデーだから。
祖母はずっとに祖父を愛していた。




槙島聖護に出会ってからほぼ監禁に近い生活を送らされて1ヶ月が経った頃。
カーテンを閉めずに眠っていたせいで朝の日差しの眩しさに目が覚める。
まだ、とても肌寒い季節なのでベッドからなかなか起き上がれなかったがいつまでもだらだらとしているわけにもいかず、まだ怠さが残る身体を起こしシャワーを浴びて寝巻から普段着に着替えリビングへ向かう。
部屋に備え付けられた豪華な暖炉に火を灯すとだんだんと大きく揺れるその炎を見つめて少し温まる。
その間に腹部から小さな音を鳴らしたのでダイニングキッチンへ足を延ばした。綺麗に整えられた銀色のキッチンにある冷蔵庫を開けた。
一応監禁されている身であるにも関わらず、こんな普通の生活と変わらないのは槙島にある程度の物を与えられていたからだ。

『等価交換。君が望むものならできる限りの物は与えよう。この生活はそれなりにリスクがあるからね』

食べ物や衣類、暇つぶしになる本(これは彼からの借り物)、望めば何でもくれるような気がしたけれど、私はこの男が怖くて生活に必要最低限の物しか要求しなかった。
監禁されているとは思えない自由さなのは彼の欲求を満たすための交換条件だからである。
私の役目はただ彼の隣にいて話を聞くだけ、槙島の話はまるで探求者か評論家かのように世界の話をする。大学の評論会に参入した学生のような気分だった。
なんて、この1ヶ月間を思い出してはため息をついてしまい落ち込みながらも冷蔵庫を開けたら、そこには普段ない物に目がつく。
それは大量のチョコレートだった。
私の記憶の限りでは昨日は無かったし、要求した覚えもない。もしかして彼が?あの人はチョコレートが好きなのか?実は食事をしているところを見たことがなく彼の趣向なんてわからない。あの男のミステリアスさを解明するのは今は難しいと判断し意識を別に移して何かを思い出したかのようにキッチン棚からボウルを取り出した。

小一時間…。
綺麗に丸く焼けたチョコレートブラウニーの上から真っ白な生クリームをかける。
最後の作業が終わった途端に私は一体何をやっているんだろうと我に返りケーキの前でガクリと肩を落とした。
こんな事をしても此処には家族なんていないのに。
急に押し寄せる寂しさと楽しかった日々を思い出して私は消し去りたい気持ちが強くなり捨てようとブラウニーに手を伸ばす。

トットットッ――――

近くなる軽快な足音、それと同時に香るシャンプーの匂い、その方向に目を向けると私は急に身体が強張ってしまう。
中途半端に留められた釦から覗かせる細い外見とは裏腹に鍛えられた無駄のない胸の筋肉が覗かせるちょっとだらしない着こなしのワイシャツに七分丈のパンツスタイル。彼の普段着。
月のように輝く濡れた銀髪と肩から湯気が沸いて如何にもさっきまでバスルームにいたと言わんばかりの格好で現れたこの男は私を監禁した張本人“槙島聖護”である。

「おはよう。こんな早くに起きてるとは思わなかったよ」

彼は私を見つけると屈託のない爽やかな笑顔で挨拶をしてきた。それが憎らしく相変わらず彼の読めない行動である。
私は捨てようとしたブラウニーを置いてキッチンから出ていき挨拶を返すわけでもなく槙島に近付いては背伸びをし彼の首に垂れかかったタオルを手に取って濡れた銀色の髪を拭いてやった。
この行動は無意識というか癖だ。私の祖父と父親、そして弟はちょっとだらしない性格でお風呂から上がっても頭をちゃんと乾かさない。日常がずぼらな男性が三人もいたおかげでつい世話を焼いてしまう。
別に槙島が好きというわけでもないし、好意を抱いてもらいたいわけでもないのに、気付けば今何をしているんだとこの状況が恐ろしくなりサーッと顔が青くなって背中に寒気が起きる。
その状況を全て見ていた槙島は感づいたみたいで無言のまま私の肩をゆっくり押して距離を取り、私の手からタオルを抜き取っては自ら髪を拭いていた。きっと図々しい女と思われただろう。

「この香りは何かな?」

槙島はキッチンの方へ目をやるとスタスタとそちらへ行ってしまうと私は見られたくない気持ちでいっぱいになり慌ててしまう。同時に「だめッ!」と叫んで槙島のシャツの裾を掴んでしまい、引っ張られた釦はブツリと切れて床に転がり落ちる。
進むのを止めた彼はきっと此方へ振り返っているであろう向けられている視線が恐い。
私はまるで蛇に睨まれた蛙のように固まり、彼の顔を見ないように視線は下に向けたままシャツから手を引っ込めた。
脚が震えて立ち尽くしていたが予想に反して彼の声は穏やかだった。

「これは焼き菓子の匂いだね。君は何か作っていたのかな?」

ゆっくり顔を上げると彼は破れたシャツなど気にも止めない様子で何か面白いものを見つけたような目で私を見ていた。

「とても慌てていた様子だね。僕に見られてはまずいものなのかな?」

穏やかな口調はだんだん厭らしく憎らしい声質に変わり、それは刃物のように鋭く変化した言葉となって私を追いつめる。
これはまた同じパターンには嵌まってしまう…。
そう察知した私はその問いに答えず彼を睨みつけてからキッチンへ向かい槙島の興味をそそらせた物を持ってきてそれを彼の目に前に向けた。
正直、知識と経験の差から今の私では彼の言葉には勝てない。だから行動を先に起こして彼のペースに振り回されないようにする。1ヶ月間で身に付けた槙島に対しての抵抗である。

「今日は祖父の誕生日だから…好きな物なの」

いつもは饒舌に語るくせにこの時の槙島はその後は何も言葉を発しない。それがさらに悲しみを込み上げさせて早くこのブラウニーを捨てたい気持ちになる。
今にも泣きそうな顔で俯いていると槙島は私の手からブラウニーを盛った皿を奪った。
暖炉で暖めてある部屋とはいえ二月の冷たい空気で冷めてしまったブラウニーは直に触れても熱くないからか、槙島は指先で摘まみ取ってそれを口に含んだ。

彼が物を食する姿を初めて見た。
今まで共にいたにも関わらず、生活の面は見えず謎だらけだった槙島聖護という男は本当に人間なんだと感じた。
そんな私など構わずに槙島はゆっくりとブラウニーをたいらげる。
チョコが付着した指先を嘗めとって、最後の一切れを摘まんだかと思えばいきなり私の口の中へ押し込んだのだ。

「!?」

突然の事に私は倒れそうになったが後ろのテーブルが支えになって何とか立ったまま持ち堪えられているが、これはどう見ても逃げられない状態である。
指先についた彼の唾液が私の口の中に入ってきて気持ち悪いはずなのに羞恥心の方が大きくて身体中が熱くなる。
ブラウニーは全て飲み込まされても彼の指は口から離れてくれずに何かを探るように奥歯をなぞったり、舌を絡め取っては弄ぶため唾液が溢れて首筋へ伝う。

「……っ…ぅ……ふぁ……」

苦しい―――息ができない――――
彼の腕を掴んで引き離そうにもやはり敵わない。
さらに槙島は先程持っていた皿をいつの間に床へ落としていたのか空いた左手を私の腰に回してきた。途端にお互いの距離は近くなり、釦が外れしまったシャツは開けてまだ拭ききれてない水滴と引き締まった彼の胸元が厭らしくも美しかった。だが、目線を上に向ければ、それを裏返すように殺意に満ちた恐ろしく不気味な笑みを浮かべている。
私は本能的に口内で蠢く彼の指に思いっきり噛みつくとそれを待っていたのかのように彼は満足気に指を引き抜いた。

自由になった口は漸く空気を吸い込むと同時に咳き込んだ。
口の中で鉄の味を感じると彼の指先から血が出ている。噛みつかれた指先を彼は嬉しそうに見つめていた。

「過去に捕らわれているのに力は無く。それを仇なす努力もしない。ただ僕を憎むだけ。君はいつになったら僕を殺しにくるのかな?」

呼吸が乱れて頭が痛くて眩暈がするのにその時の彼の声は何だか寂しそうで切ないように聞こえた。

「君が清らかなままでいられるのも時間の問題かな」
「…ッ!そんな気もないくせに…!」

侮辱された言葉に感情は高ぶり打とうと手を振り上げるが虚しくもそれは簡単に押さえ込まれ見事に反撃されてしまい頬を叩かれてしまう。
彼の言うことは最もだ。私は此処に来てからずっと悲しんで塞ぎこんでいただけ。彼を殺すチャンスはいくらでもあった。

「みょうじなまえ。僕を失望させるなよ」

冷ややか視線、冷ややかな唇はそう言った。
私の心を掻き乱して揺さぶって遊んでいるように見えるが彼は私を試している。私の中にある人間的な本能の変化を。
こんな奴に負けたくない。絶対に負けたくない。そう思わなければ彼の隣には居られない。
まだ言葉にできない中途半場な形になっている“想い”をまだ奥に隠して、それを見ないように、まだ気付かないように。叩かれた頬の痛みを噛み締めて彼を睨みつけた。
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