誰にも黒歴史というものが存在するわけで。かくゆうなまえもその一人である。
発端は新入りの縢秀星という執行官がやって来たことだ。なまえは公安局の食堂で調理係を担当していた。当然それなりの腕はあり、人々からも好評である。
ある日、縢が食堂にやって来た。いかにもチャラ男という感じがする。自然と彼女の眉間には皺が寄る。すると彼も彼女の視線に気づいたのか睨み返してきた。
「なんだよ。」
ドスの効いた声で言われて思わずなまえは肩を竦めた。しかし逃げ腰になるのはプライドが許さない。
「別に。ご注文は?」
ツンとすました表情を向けて尋ねれば、縢は定番中の定番、カレーを注文した。
こういう人って料理苦手そうだもんなぁー。料理をしながら横目でチラリと彼を伺えば、ゲームに夢中である。
新入りのくせに態度でかそう。自慢の料理でぎゃふんと言わせてやるか。そう考えたのが間違いだとは思いもよらなかった。
「おまちどうさま。」
彼のテーブルに出来立てのカレーを置くと、縢はゲーム機から顔を上げた。
「サンキュ。」
軽くお礼を言って、早速スプーンを手に取る。そしてカレーを掬ったのだが。
「何してんの?」
ふいに縢の視線が、側に立つなまえへと向けられる。用が済んだなら戻れと言わんばかりの表情だったが、彼女は気にしない。
「新入り君の口に合うかなーっと思って。」
要するに美味しいという感想が聞きたいのだ。なまえの言葉に縢は気が散るような気もしたが、ひとまずはそのままにしておくことに。そして漸くカレーを口へ運ぶ。
なまえは期待を込めた眼差しを彼に向けて、彼の口から絶賛の嵐がくるのを待っていた。
しかし、カレーを飲み込んだ縢は眉間に皺を寄せて、何かを吟味するような難しい顔をする。
もしかして辛すぎた?坊っちゃんには甘口がお好みだったかな?そんなことを思っていると縢が彼女を見上げた。
「これ、カレー?」
見た目は当然カレーというカレーを指差して縢が尋ねれば、なまえは目を見開く。一瞬彼が何を言っているか分からなかったからだ。
「どう見てもカレーでしょ?」
眼科行った方がいいんじゃない?と言うのは流石に失礼だと思って口を閉じる。しかし縢は眉間に皺を寄せたまま言う。
「ちげーよ!味覚のことだっつーの!あんた、料理人のくせに味見しなかったのかよ?」
失礼な言い方に腹が立ったが、思えば、彼の言う通り、味見をした覚えがない。なんせ、早くぎゃふんと言わせたかったから、味見などしている暇がなかったのだ。
彼女が言い返せないことを知ると縢は大げさな溜め息をつく。
「ったく、それでも料理人かよ。」
明らかに呆れた表情に思わずなまえは頭にきてしまった。ドンと彼のテーブルを叩く。
「そんなこと言って、本当は美味しすぎて嫉妬したんじゃない?この私が料理で失敗するはずがないもの。」
彼女はそう言うと縢の手からスプーンを取り上げて口へ運ぶ。そして、次の瞬間、あまりの不味さに顔をしかめた。
「な?俺の言った通りだろ?」
なまえの表情を見て彼が追い討ちをかける。舌に広がる苦みは調味料を間違えた結果だ。そういえば横目でチラチラ彼を伺っていた。その時に料理方を間違えてしまったのだろう。
今まで完璧だと思っていた分、このミスは痛い。最悪すぎる。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
第一印象が悪い男に頭を下げるのは嫌だったが、一応客への接待として常識を弁えないと。
新しいカレーを作らなければ。そう考えた彼女に縢が声をかける。
「俺が作るから厨房貸して。」
そう言う顔は、まるで、こいつは本当の料理を知らないと言っているようで気にくわなかったが、先程のこともあって逆らえなかった。
というか、こいつ、料理できるの?厨房爆破事件でも起こすつもりか?そんな疑問やら疑惑がなまえの頭に浮かんでいたが、彼の手捌きは見事なものだった。
まるで見た目と全然違う。男性は女性よりも料理が得意だと言うが、まさにその通りだ。
テキパキとした行動になまえは思わず見とれていた。まさか、こんなチャラ男が…!思いもよらぬギャップである。
そうこうしているうちに厨房には美味しそうな香りが漂っていた。食欲をそそりそうな、または、香りだけで満腹になりそうな、そんな香りだった。
縢はおたまで掬うと味見をして満足したのか、今度は彼女におたまを差し出した。味見しろということなのだろう。なまえは彼からおたまを受けとると恐る恐る口をつける。すると舌に広がったのは、今まで食べたことのないような美味しい味だった。
「美味しい!」
目を輝かせて素直な感想が漏れる。自分の手料理よりも遥かに美味しい!こいつは一体何者だ!?
きっと潜在犯でなければ、シビュラシステムが彼を料理人の道へと導いていたかもしれない。そう思うほど彼の料理は素晴らしかった。
縢はなまえの素直な反応が気に入ったのか、ニッコリ笑うと、
「これが本物の料理ってモンよ。」
と、得意そうに言った。そんな彼を見ていたら今までの自分の行動が急に恥ずかしく思えてくる。井の中の蛙であることを自覚した彼女はジッと彼を見つめた。
「ねぇ、作り方教えて?」
新入りなのは自分の方かもしれない。そんなことを思いながらも、彼の味が舌から離れない。自分もこんな料理を作りたい。
「んじゃ、まず、料理の味を知らねーとな。」
なまえの依頼に彼はそう答えた。味を知る。つまり彼の料理をもっと食べられるのだ。これは嬉しい。彼女の目はキラキラと輝いた。
言わば、彼の料理はドラッグと似ている。一度舌がその味を覚えてしまえば忘れることなどできない。彼の料理に依存してしまう。
素敵な麻薬だな。そんなことを思いながらも、やはり、過ちをおかしてしまったことは、料理人のなまえにとっては消してしまいたい過去なのであった。