4 | ナノ
 ふかいふかい、闇へと飲み込まれていく。ごぽりと洩れ出た息は気泡となって、うえへうえへと昇っていった。
 そのさまをただぼんやりと眺めながら――ああ、俺もこのままこと切れるんだろうな。なんて、彼は思う。
 薄れゆく意識の中で視線を少しだけ横にずらすと、ぷかりと浮かんだまま微動だにしない金魚たちが、彼をじっと見つめているようだった。


「あーあ、また随分ハデにやっちゃったねえ。なまえちゃん」

 容疑者宅に着くなり真っ先に突入して行った彼女を追いかけてみれば、この有様。ドミネーターによる“執行完了”の思考性音声を聞き流しながら、縢は眼前に広がる惨状を溜息交じりに見つめる。
 後頭部に両手を組むお決まりのポーズで室内を見渡すと、割れたガラス片や壊れた家具が辺り一面に散らばっていた。執行された犯人のものだろう。飛び散った血液や体液で床や壁が汚れているのも見てとれる。
 どうやら今回の犯人もまた、彼女の癪に触れてしまったらしい。――ほんっと、執行官より執行官らしくて参っちまうよな。縢は胸中でそう呟きながら、茫然と立ち尽くしている彼女へ視線を向けた。捜査時にあれほど「絶対に許せない」と息巻いていた姿はいったい何処へ行ってしまったのだろうか。そこにいる彼女が到底、同じ人間だとは思えない。
 縢が「なまえちゃん、」と呼びかけても、彼女からの返事は返ってこなかった。執行後の彼女はいつもこうなのだ。遠くをぼんやりと見つめ、まるで何かの儀式のようにただじっと黙って立ち尽くしている。そうすることで彼女自身を保とうとしているのかもしれないが、縢にとってはまるで理解が及ばない。

 彼女はまさに“猪突猛進”と云う言葉が似合う人だった。自分の正義感がきちんと確立しているからなのか、こうと決めたことから外れることを許さない。とことんまで突き詰め、追い求め、そうして至るのが毎回この行き過ぎてしまった現状なのだ。
 それを宜野座からことある毎に注意されるのだが、彼女は頑として自分の意思を曲げないため常に意見の衝突を繰り返している。上と揉めることも少なくない彼女を、縢はいつだって“生きづらい生き方をしている人だ”と思っていた。

「このまんまじゃ、いつかほんとーに無事じゃ済まなくなっちまうんじゃねえの」

 もう一度、ゆかに視線を這わせて彼はぼそりとそう呟く。無残な姿になった肉塊を見て、彼女も何れこんな風になってしまうんじゃないだろうか、と縢は嫌な考えを過らせた。途端、自身の胸に違和感を感じ眉間に皺を寄せる。ぐう、と息の詰まるような感覚に彼は慌てて酸素を吐き出した。
 はっ、はっ。荒くなる息で数回せき込んだが、何事もなかったかのように振る舞おうと顔をあげる。けれど、居たはずの彼女が見当たらない。思わず瞠目して辺りを見回せば、床にしゃがみこんでスプーンを掲げる彼女が目に留まり、縢は胸を撫で下ろした。「な、にしてんだよ」若干ことばに詰まりながらもそう声を掛けた彼に、彼女はまるで当然とばかりにスプーンを床へ滑らせる。
 そこにはぴちぴちと跳ね回る赤い物体――金魚が助けを求めるかのごとく口を開閉させていた。

「なにって。これ以上関係ない命が失われるのは、いやなの」

 文字通り“すくわれて”云った金魚は、何処から用意したのか分からない袋に入った水の中へと戻され、悠々と泳ぎ始めている。ぱくぱくとお礼でも云うように開いた口からは、気泡が発生し水面に上昇しては消えていった。
 それを見た縢は何故か先程の感覚を思い起こしてしまう。――似てる。気がした。暫くそのさまを眺めていれば、漸くすべての“命”をすくい終えた彼女が立ち上がり口を開く。

「ねえ、縢くんの部屋に丁度いいサイズのボウルってある?」
「はあ?なんで、」
「もちろん。縢くんの部屋でこの子たちを飼うからに決まってるでしょ?」

 至極、当然とでも言うようにそう宣(のたまう)彼女に縢は再度ため息を吐き出した。呆れの色を含んだ虹彩が彼女へと向けられる。けれど、ここでダメだと云ったところで、彼女が大人しく聞くような玉ではないことぐらい彼にはわかっていた。
 分かっていたからこそ、口をついて出たのはからかいの言葉。「ギノさんにバレたらヤバいんじゃないっすかあ?みょうじ監視官殿」そんな彼の態度に彼女は生意気だ、と言わんばかりに表情を歪める。
 だが、すぐにそれを崩すと口許に弧を描いて「だって、そうすれば毎日会えるでしょ」と切り返した。――それって、どっちに対してだよ。今度は縢が表情を歪める番だった。金魚に対してか、将又(はたまた)、自分に対してか。解りかねる言い方に苦笑を洩らし、やっぱりなと呆れてしまう。
 どうしたって口角が上がってしまうのを隠しきれないまま、縢は手首の通信端末に視線を落とす。宜野座からのコールサイン。報告もせずこんなことをしていれば、彼が痺れを切らすのは目に見えていたはずなのに。これじゃあどっちが監視官かわかったもんじゃない、と縢は呆れながらも口元を緩ませた。


 それから、彼女は必要なものがないと言う縢を一瞥して「まかせてよ」の一言で片づけると、彼の部屋へと押し入ってきた。用意されたのは適当な大きさのボウルと水。それのみ。こんなもので本当に大丈夫なのか、と疑いの眼差しを向ける縢に彼女は笑って言葉を続ける。
 何処かで見た昔の人が使った方法なのだ、と言って蛇口から流れ出る水を薬缶に入れ火にかけた。蓋が外された薬缶は徐々に加熱され、沸騰してきたのかボコボコと音をたてはじめる。ミネラルウォーターが流通する昨今で、こんな古典的な方法をとって飲み水にしようなどと考える輩は早々いないだろう。殺菌には優れたやり方だが、如何せん時間がかかってしまうのが難点だ。
 黙ってことの成り行きを見ていた縢は「随分めんどうなやり方だな」と胸中で溢しながらも、彼女が全てやってくれると云うので任せることにした。薬缶を覗き込んでいる背を見遣れば、持たされていた袋の中で金魚が水面から顔を覗かせる。
 ミネラルウォーターではあまり身体に良くないのだろうか。彼はそう思案して再び袋から彼女の背中へと視線を移すと、丁度火を止めたところだった。「冷まさなきゃいけないから、もう少しだけ待ってね」と、彼女が背中越しに声を掛ける。
 縢はそれに思わず「だってよ」と喋れもしない金魚たちに話しかけていた。

 狭い空間で飼われるための生き物。意識しなくとも、何処か親近感を覚えて自分と重ねてみてしまう。執行官になったことで隔離施設という狭い檻からは出られたものの、なったからといって自由に外へ出入りできるわけでもない。
 行動するにも監視官付きでなければならない自分は、金魚たちと何が違うのだろうか。
 ――彼女が居なければ何処へもいけない。それは、縢にとって酸素がなければ死んでしまう金魚と同様のような気さえした。
 隔離施設にいた頃の彼は心なんてものはなく、死んだも同然だったからだ。二度とあんな場所には帰りたくない、と彼は無意識に眉間へ皺を寄せる。ぐう、とまた息の詰まるような感覚がして、縢はごほっと咳き込んだ。

「大丈夫?縢くん最近よく咳してるね。風邪?」
「いんや、そうじゃねえんだけど…」
「感染(うつ)さないでよー、こっちは仕事が詰まってるんですから」

 悪戯っぽく笑う彼女の声が部屋にからりと響く。「うつさねーよ」と、縢は不貞腐れたような声色を出しながらも「よし!」と満足げな彼女に口端をゆるりと緩ませ歩み寄った。冷たすぎるのも如何やら良くないらしい。彼女は近づいてきた縢の持つ袋に手を添えて、何やら確認を終えるとそのまま水を彼の用意したボウルへと移し替えていく。
 やがて水を全て入れ終えたそれに、金魚を移そうと思ったのだろう。キッチン用具が並ぶそこからお玉に手を伸ばそうとした彼女に、流石の縢もそれはないだろうと待ったの声を掛けた。散々言い合ううちにぴちゃりと袋の金魚が飛び跳ねる。
 いいから早くしろよ、とでも云われているようで、二人は互いに顔を見合わせ声を上げて笑った。

「もう帰んの?」
「んーん、エサあげなきゃ」
「あー、こいつらってなに食べんだろうな」
「市販のエサじゃなきゃ駄目そうだよね。って、そうじゃなくて…」

 金魚の入ったボウルを持ったまま意味深な視線を投げかける彼女。縢は一瞬、面食らったような表情をするもゆるりと虹彩を滲ませて彼女を見遣る。ことり、と部屋の何処からも見える位置にボウルを置くと、彼女は再び満足げな表情を浮かべ頷いた。

「ほら、これでこの部屋にも癒しが出来たねー」
「んだよ、それっ!癒しならここにあんだろ。さいっこうの癒しが、」
「えー、何処にあるの?」

 ぐいっと彼女の顎に手を添えて、縢は二人の間にある距離をぐっと縮める。「ふふっ、」可笑しそうに笑う彼女と視線を絡ませると、彼の首に華奢な両腕が回された。「じゃあ、癒してくれるんですか?秀星くん」細められた瞳に彼の顔が映り込む。今度は俺に任せておけとでも云うように、彼は自信ありげな表情を作ってみせた。
 縢の片手が彼女の腰へと移動し、更に縮められていく距離。「なまえ…」彼の優しさが滲んだ声色は、彼女の鼓膜を甘く震わせる。それに応えるように、そっと瞼を下ろした。重なった唇が蕩けるころ、二人はそのままソファへと身を沈めてゆく。
 縢は自身の身体の中にすうっと酸素が溶け込んでいくような、そんな錯覚に陥った――


▲▽▲


 彼女は兼任監視官と云う刑事課でも特殊な役職に就いている。それは、万年人手不足のこの課にとってなくてはならない職務だった。係の垣根を跨いで仕事をするのだから、数週間あえないことなどざらに起こる。
 けれど、ここ最近では“金魚の世話”という名目で常に顔を合わせられていた。「一日一回は水を変えないと数匹で飼ってるときは酸素不足になるんだって」彼女がそう言っていたのだから、間違いなく毎日顔を見れるはずだったのだ。それの方が、稀なことなのに――
 一週間程前から大きな仕事を抱えていると云って、縢は彼女と連絡が取れなくなっていた。今まではそんなことで一々、気を張ることもなかったはずなのに。最近おこった出来事のおかげで、すっかり彼の感覚は麻痺していた。
 会えないと思えば思うほど、何処かで息苦しさを感じている。それが、なんなのか。彼には薄々わかっていた。人間誰しも起こりうる現象――中毒、依存。
 縢は焦る気持ちを抱えながら、何とか平静を保とうと金魚たちを見遣る。心なしか水面に顔を上げる頻度が増しているようにも見えた。鼻上げをすると酸素が足りない証拠だ、と何時しか彼女が言っていたのを思い出す。けれど、彼は水を変えようとは思わない。
 ――変えてしまえば“金魚の世話”と云う名目で此処を訪れる彼女が、来なくなってしまうのではと思ったからだ。

 やけに息苦しい、と縢はおもった。そして同時に、この数週間で自分は彼女に酷く固執してしまったのだとも。執行官になったばかりの頃、好きな物を好きなだけ集めたはずの部屋は今の縢にとってただの空虚でしかない。
 彼女がそこに存在していないというだけで、こんなにも違って見えてしまうのだ。世界のすべてが。

『みょうじ監視官が今朝、遺体で見つかった』

 宜野座の言葉が脳内でリフレインしているのに、縢はそれをうまく飲み込むことが出来ずにいる。ぴちゃり、また金魚が水面に顔を覗かせた。――くるしい、くるしい。うまく酸素が吸えねえよ。

「っ、ごほっ、げほ」

 ぽたり、ぽたりと雫が床に落ちていく。――なまえがいなきゃ、ダメなんだよ。俺も、こいつらも。呼吸が出来なくて、死んじまうじゃん。
 薄れゆく意識の中で縢は思う。ぱくぱく、と口を開けていたのは果たして誰だったのだろうか。


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