4 | ナノ
俺はずっと恐れていたのかもしれない。
制約で縛った命が、誓約を囁く瞬間を。



小一時間ほど前から降り出した雨は、細々と街を包み込んでいる。こういう雨が一番濡れると経験上知っているからこそ、冷え込みに負けないよう奥歯を噛みつつドミネーターを構えた。銃口が狙うのは、ナイフを握る仕草以外はごく平凡な男の背中だ。切っ先に付着した血は雨に打たれても流しきれず、艶やかに輝いている。獣じみた匂いを放つ鮮やかな赤が、やけに眩しい。あれは魂の欠片だ。どんな人間にも平等に与えられた数少ない共通点が、コンクリートに滴り落ちていく。

被害者となった二十代の女性は品のある顔立ちで、画像ではこんな惨劇など微塵も想像させないほど優美な雰囲気を兼ね備えている。しかしその実態は、サイコパスの浄化を掲げては不正な医療行為を繰り返している潜在犯にすぎない。俺の数メートル先で着々と犯罪係数を上昇させている男は、女性にとって仕事上のパートナーに値する人物だ。シビュラ判定による互いの相性は最悪だったが、利害の一致から親しい仲になったのだろう。

馬鹿馬鹿しい。呆れを通り越した俺は、嘲笑を押し殺した。シビュラを甘く見ているからこんな目に遭うのだ。彼らの末路は安っぽいもので、利益を独占しようとした男が女性を処分したらしい。その結果がこれだ。女性の遺体は足立区の廃棄区画で発見され、既に鑑識ドローンの回収作業も終わっている。現場の遺留品から犯人はすぐに特定できたし、この男を追い詰めるまでさほど時間もかからなかった。唯一発生した問題は、男がメディカルトリップか何かで痛覚を失っていることだ。先程俺がパラライザーで奴を仕留めようとしたが、それが原因で取り逃がしてしまい今に至る。

今夜の当直は、俺とみょうじの二人しかいない。エリアストレス上昇による通報を受け、夜中の廃棄区画で女性の遺体を発見し、現場に残されていた血痕を追ってここに辿り着いた。廃棄区画の奥にあたるこの場所は建築物の老朽化が進み、デバイスに表示された地図と異なる作りになっていることも少なくない。地下の汚水が足元を汚す中、息を潜めて男へと近づく。みょうじに対しては、合図もしない。

『犯罪係数オーバー300、執行対象です』

古びたコンクリートの壁に背中を預け、デコンポーザーへ変化したそれを構える。シビュラがようやく男を相当な脅威だと判定してくれた。これで始末をつけられる。そのときようやく人の気配に気づいたのか、男は振り返りながら薄気味悪い笑みを浮かべ、こちらに向かって走り出した。

「−っ、」

距離が近すぎて、ドミネ−ターのトリガーを引く余裕もない。あとはナイフの先端を避けきれるかどうかだ。判断を迫られた俺が身体を捻りかけた次の瞬間、男の顔面にデコンポーザーが命中した。頬に口づけるように小さな、けれど鋭い一撃は閃光となり、あっという間に男を分解してしまう。俺の目の前で消失した肉片を呆然と見ていると、いつもと様子が違う足音が耳に届く。背後を見ると、そこにはパンツスーツに身を包み雨に濡れたみょうじが立っていた。

「…宜野座監視官の負けですね」
「勝ち負けなどないだろう」

うまい言葉が思いつかずにそう吐き捨てると、ふてくされないでください、と言って彼女は笑う。

「被害者がいる時点で俺達の負けだ」
「被害者の色相が濁らなければ通報もなく、もっと最悪な事態になっていたかもしれない…彼女は必要な存在でした」

淡々と犠牲を容認するみょうじに、人間らしい迷いは見えない。シビュラを肯定することにより漠然とした不安を断ち切ろうとする彼女の姿勢を、俺は決して馬鹿にできなかった。デバイスを使い鑑識ドローンを呼んで、現場の後始末をさせている間に、ドローンに渡されたタオルで全身を軽く拭う。こうも返り血を浴びてばかりだと、何度スーツの染み抜きをしても生臭さが消えなくなってしまっていけない。雨で濡れた眼鏡のレンズに鬱陶しさを覚えつつみょうじを見ると、彼女は左手でタオルを握りしめたまま動かなかった。

「…拭かないのか」
「ええ、まぁ」

視線を逸らして曖昧な相槌を打つその癖が何を意味するのか、共に働いてきた年月で十分察知できる。

「スーツを脱げ」
「宜野座監視官、いきなりどうしたんですか」
「早くしろ」
「セクハラ発言なんて監視官らしくないですよ、っ」

半ば無理矢理彼女のスーツのボタンを外した俺は、そのまま剥ぐようにして上着を脱がせてしまう。案の定、彼女の右腕には赤い染みができていた。白いワイシャツを彩る真紅は生々しく、痛みがあるのかみょうじは顔をしかめている。

「…いつやられた?」
「変なこと聞かないでください」

本人が喋りたくないなら、監視官権限でデバイスに記録された音声データを後で確認すればいい。手荒なことはあまりしたくないが、そのくらい職権乱用をしたところでみょうじ以外の誰に咎められるわけでもなかった。ワイシャツの袖をめくりあげて傷口を確認する。応急処置なんてドローンに任せれば済む話なのに、今まで部下の負傷に気づかなかった後ろめたさが俺の手を動かしていた。ネクタイをほどき、彼女の腕に巻いて止血しようとすると、みょうじはさりげなく後ずさりをする。

「動くな」

腕を掴んだまま低い声でそう命じれば、みょうじは飼い主の命令を守る忠実な犬さながら動きを止めた。猟犬らしい彼女の振る舞いに内心満足しながら、ネクタイを華奢な腕に巻き付け締め上げる。

「傷は浅いが出血量が若干多い、公安局に戻り次第唐之杜に診てもらえ」
「…はい」

彼女の返事は妙に穏やかで、表情が気になった俺は盗み見るようにして顔色を確かめた。こういうとき、眼鏡は視線を誤魔化しやすくていい。

「宜野座監視官が無事ならそれでいいんです」

みょうじは優しい顔で、はっきりとそう言い切った。慈愛に溢れた目元は、口角を上げた無邪気な表情によく似合っている。怒りたいのにうまい言葉が見つからず、舌打ちをした俺は、猟犬に甘噛みされたような苦い気分になった。

「…ふざけるな」
「ふざけてないですよ?」
「負傷者が増えれば、ただでなくても深刻な一係の人員不足がますます悪化するとわかっているだろう」
「それでもあなたに尽くすと決めてます」

盲目的な愛よりもよっぽど胸焼けしそうになるその言葉は、俺の鼓膜の奥を覆い尽くし、いつまでたっても消えはしない。みょうじはネクタイの先をくるくると片手で弄び、俺に背中を向ける。

「これ、後で弁償しますね。高そうなネクタイですし」
「必要ない」
「必要だって言ってください」

それだけで救われるんです、そう聞こえた気がしたのは都合のいい幻聴だろうか。



雨音は止まない。降り続くそれは俺と彼女の言葉を遮り、静寂にも似たノイズを生み出す。何もかも流してしまうには耳障りで、全てを抱きかかえるには頼りない。水分にじわじわと熱を奪われながら、ネクタイが結ばれていない胸元に目を向ける。呼吸はしやすいのに、酸素が足りない。病の如く俺の全身を駆け巡る、この衝動は一体何なのか。その正体を知るまで時間はそうかからないと諭す雨は、いつまでも世界を浸食し続けていた。
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