4 | ナノ
お医者さまは私を病気だと言った。

「あなたは、病気なんです」
「どうして」
「あなたの体は健康そのものなのに、あなたの心が死にかけているんです」
「それはいけないの」
「心が死ねば、体も朽ちましょう」
「でも、せんせい、」

言いかけてやめたのは、唇を開くのも、声帯を震わせるのも大して意味を感じなかったから。___億劫、怠慢、面倒、拒絶、孤独、憂鬱、無無、虚空、煩労___私の目玉の硝子の向こうの世界は、私ごときのくだらない考察によると、九〇パーセントの虚しさと九パーセントの面倒な出来事と、〇.九九九九...パーセントの機械仕掛けの意志選択で構成されていると思われた。残り〇.一一一一...パーセントは何で出来ているのか、思考を諦めた私の脳では計算はできない。お母さまは私をぶったけれど、私の体は動こうとはせず、お父さまは私に優しく説きはじめたけれど、心は動こうとしなかった。ふたりは私をさんざん罵って、それでも見捨てずに、そして、私が意志を持つことを諦めた。ふたりの視線は、いつ芽を出すのか分からない、そう、一〇〇年に一度咲く竜舌蘭を見るような、呆けたものに置換されたのだった。

「ぜんぶ、億劫よ」

果てのない湖を泳ぐような嗜眠を貪り、まるで貝を擬態したかのよう昼夜に忙しない世界を遮断した。寝て、食事をし、バスタブに浸かり、本を読んだ。私の生活はこの四原則で成り立つ。他には何もしなかった、何も考えなかった、何も生産しなかった。白い椅子に座り、三〇度に差し込む朝日に染まってぼんやりしていたと思ったら、日はとっくに沈んでおり静かな夜の空の下で自分の存在を思い出す。時間の間隔さえも感じるのを拒否しているらしい。私はあらゆる外的刺激を拒否する、生きることに病んだ病人に慣れ果てた。心臓の力は弱まり、肌は白い椅子と同化するように透き通っていき、顔から感情と表情が消え失せた。面倒だからそれでいいと思う。私は冷めた食事を食道に突っ込み、いつものように白い椅子の上で本を読んだ。ペール・ブルーの空から何時であるかを判断する能力はとうに失っていた。

「時間は時間から生まれた子供たちを飲み込む。悩みも時間の子であって、悩みが永遠を僭称するのは、まやかしにすぎない___キルケゴールの言葉だよ」
「あなたはキルケゴール?」
「いいや、僕は槙島聖護だ」

「僕の名前も覚えるのは面倒かい」と男は言う。ひさしぶりに機能しているのか分からない鼓膜が揺らされたのだった。自分の名前を名乗ろうとしたけれど、それが刻まれていた記憶すら忘却の果てに行ってしまっていた。男は、私の持つ本に出てきそうなほど、美しい造形をしていた。その本の名前を思いだそうとしたけれど、やはり面倒くささを覚えたので思考回路を断った。この白い部屋はアコヤ貝の内側みたいだったけれど、私はアコヤ貝の中で生成される真珠にはなれないだろうと思っていた。この男なら真珠にでもなれるんじゃないだろうか。その細く煌めく、銀白色の髪の毛は、芥川に出てくる蜘蛛の糸みたいだなと思う。食事を運んでくる使用人すら私と口を利かないのだから、人間と会話するのは実に実にひさしぶりだった。はっと気付けば、太陽は空を半周していて、部屋が赤く染まっていた。人間の本能を掻き立てるような、鮮烈な、綺麗な色。男は、部屋の隅にあったもう一つの椅子に、私と向き合う形で座っていた。いつ、帰るのだろう。ああ、まただ、億劫だ、何もかもが煩わしい、何て憂鬱な気分なんだ!男は私を見ずに自分の手元にある本を読んでいた。私は気を昂ぶらせるのが馬鹿らしくなって、また本に目を落とす。次に、ふっと無意識から覚醒したのは、星が瞬き、月が空高く鎮座する頃だった。暗い部屋を見渡して、どうやって自分は本を読んでいたのか不思議に思う。顔を上げると、まだ男がいた。本を閉じて、足を組み、黄金の月みたいな色をした瞳で私を見ていた。

「分かった、覚える」
「僕の名を?嬉しいな」
「うん、あなたは槙島聖護」

その日から槙島聖護は、私の白い密室にたびたび訪れるようになった。フルネームで呼ぶのが長ったらしかったから、槙島さん、と呼んであげた。どこまでも文学的な彼は、放っておけばそこらに積まれた本と同じ雰囲気を放つので、時に彼の存在に気付かないという不思議な現象も起こったのだった。私が浮遊していた静かな湖面に、波紋が広がった。確実に槙島さんは私の脳内に根を広げていった。その根は私から何かを奪おうとするのではなく、逆に知識や哲学を与えていく。ほとんどが私の穴だらけの頭から落ちていったけれど。私の生活の四原則に、一項目が追加されたのだった。寝る、食事をする、読書をする、お風呂に入る、槙島さん。槙島さんは質問をするのが好きだった。それは、ある意味では一方通行なものだったけれど、全て私が肯定するような問いかけばかりだったから、決まって私の答えは「そうだね」だった。

「シビュラ・システムは人々から必要なストレスすら取り上げた。一度、過剰なストレスケアに頼ってしまった人間は、刺激に対する生理反応すら麻痺し、考えることも放棄する____君みたいだね」
「そうだね(だって何をするのも億劫で憂鬱なのだもの)」

単一な返答に、それでも満足げに槙島さんは微笑むと、私の手を取った。誰かに触れられるのは半世紀ぶりのような気すらした。槙島さんの指が、私の指の間にするりと侵入する。私の反応を確かめるように顔を覗かれた。私はこっそり槙島さんの瞳の色に名前をつけていた。英知の色。その目は、私の瞳の奥底の森にひっそりと隠れている、深く暗い湖を探り出していた。静かな湖面に漂って眠っていた私を、槙島さんは岸辺に連れだそうとしていた。この惰眠をあなたが覚まそうというのか。

「君は僕なしでは生きられないよ」
「どうして、そんなことない」
「そう長くは生きられないんじゃないかな」
「教科書みたいに簡潔に、道筋をたててお話してよ」
「じゃあ、逆説だ。君は僕に殺されるのを受理できるか否か」

そう言うと、槙島さんは私の首もとにするりと手をかける。この人の手は、本を読むことも、人を殺めることも、何だってできるんだと思った。槙島さんの手はゆっくりゆっくり力を増していって、窒息死する前に、これだったら、後五分ほどで私の首をへし折るほどの力になるのではないかと計算された。酸素とヘモグロビン、私を生かすそれが急激に失われていく。心臓がひさしぶりに本気で稼働していた。苦しくてしょうがなくて、飾りみたいな腕を振り上げようとしたけれど、止めた。億劫とか面倒だとかそういうのとはちょっと違う。チョコレートのミルクとビターぐらいの差だけど、確かに私が感じてきたそれとは異なるものだった。私はどうやら槙島さんに心臓を止められることを望んでいたらしいのだ。消えゆく意識の隅で変な光景が見えた。私が電卓を必死に叩いている妙な姿。『この世界を構成する残りの〇.一一一一パーセントを発見したのよ!____』

咽せた。

「ね、言った通りだろう」
「…逆説が正しくても証明したことにはならないよ」

私はくっきりと自己主張をする、冷酷な槙島さんの本性をかたどった手形をさすった。苦しくてひさしぶりに涙を流した私を槙島さんはじっと見て、何も語らない表情のまま部屋を出て行った。槙島さんが解きかけのルービックキューブが転がっていた。それから槙島さんはしばらく顔を見せなかった。また、時間が知らない間に次々と過ぎ去っていく。気付けば、三日三晩寝ていたことも、一日が千年の秋を経たように感じる日もあった。無限の猿定理というのを槙島さんに教えてもらったことがある。猿がでたらめにタイプライターを叩いていたら、いつの日か、そのテキストがシェークスピアの戯曲を打ち出すという定理で、それは宇宙の年齢にも匹敵するらしい。適当にルービックキューブを回していたら、気付いた時にはぴったり綺麗に揃っていて、大変だ、これはもしかしたら宇宙の年齢を上回るほど時間が経ったのかもしれない、なんて本気で考えた。それでも槙島さんは来なかった。むずむずした。気持ち悪くなった。槙島さんのことだけを考える思考回路が成立していた。私はもはや病人とは言えないほど、まともに何かについて悩んでいた。その何かは、多分、英知の色について。

「ねぇ、槙島さんはいないの、ですか」

使用人が口を開いた私を見て、亡霊を見たみたいに悲鳴をあげてすっ飛んでいった。

「槙島さん、もう来ないの」

バスタブとベッドの椅子の往復ぐらいにしか使わなかった脚で階段を降りた。疲れた。朧気な記憶を辿って、ダイニングルームの重たい扉を開けると、お母さまとお父さまの驚愕の眼差しと出会う。信じられないといった風でお母さまが「ああ…、あのカウンセラーなら辞めさせたのだけど…」と言う。見慣れない女がフォークを取り落として、私を畏怖の表情で見つめていた。知らない間に妹が出来ていたらしい。そして、槙島さんは、もう来ないらしい。____槙島さんが私を殺そうとした日から、百五十七日が経ったっけ。私はその意味を思い知った。私はあれほど疎んでいた生きることにひどく執着しているらしい、そして、槙島さんがいないと生きるのがもどかしくて苛々する。本当だ、私、槙島さんがいないと生きてられないや。

あれ、私、笑っている。

アコヤ貝の中で作られたのは、真珠なんかではなく、もっと禍々しい光を放つ物体だった。壁に飾られていた猟銃は、惰眠から覚めた獣にとても相応しい。私は湖から岸辺に這い上がったのだ。自分の脚で地面を踏みしめることの尊さ!私の世界を構築する残りの微々たる要素はあなただったの!槙島さん、はやく来て。悲鳴も銃声も何も聞こえない、私の妹らしきものが叫び逃げ惑う様も見えない。見えるのは、森の入り口で静かに私に手を差しのべる、英知の色の瞳をした槙島さんだけ。

「君という怪物の名前を教えてよ」
「…あなたは槙島聖護で、私の名前はね、」



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