3 | ナノ
私はずっと狡噛慎也に憧れていた。


最終考査721ポイントで堂々の全国一位の点数を叩き出した彼は性格も良くて仲間想いで絵に描いたような"いい奴"だった。
学生のときは同級生で同じ科目を履修していたため顔見知り程度ではあった。が、同じ職場になってからは毎日顔をあわせるようになり、嫌でも彼の能力の高さは理解するようになる。彼はすごい男なのだ。私じゃ到底かなわない。同じ監視官になってから、口には出さないが私は彼を密かに尊敬していた。鋭い洞察力、リーダーシップ、冷静な判断。同じ年とは思えないほどに彼は完璧な男だった。

なのに。


「狡噛、始末書明日のお昼までだよ。早めに出してよね、局長は時間にうるさいんだから」
「わかってる」

狡噛は煙草をくわえながらブラインドタッチでタブレットを操作していた。昔は吸わなかったくせに。

今日の宿直は私と狡噛の二人だ。
こういう二人きりの空間というのは、彼が執行官落ちしてから初めてかもしれない。いつも宿直のときは征陸さんや弥生ちゃんと一緒のことが多いので、なんだか変な感じだ。
時間を確認すると、時刻はもう10時を回っていた。狡噛はこの前の事件で無茶をやらかしたのでその始末書に追われている。まあでもこのペースだと日付が変わる前には余裕で間に合うだろう。
一系のオフィスでは狡噛がキーを叩く音だけが静かに響いていた。

「なまえ」
「なに?」

することもないのでデバイスのデータを整理していると狡噛に声をかけられた。名前呼ばれたの、久しぶりかもしれない。顔を上げて彼を見ると、怠そうに椅子の背凭れに体を預けてこちらを見ていた。くわえていた煙草を灰皿に押し付けて、「ん」と顎で画面を指し示す。できたらしい。
すぐに私がデバイスの受信ボックスを確認すると、彼が作成した始末書が確かに保存されていた。

「おっけー」
「疲れた」

狡噛はそのままずるずると椅子に背を預けて天井を仰いだ。彼の手が少し迷うように胸ポケットを探るが、目当てのものがないとすぐに気づいたらしくその手はだらんと力なく椅子の傍に落ちる。

「はい、ご褒美」
「…っ」

狡噛に向かって煙草を投げると、彼はだれた姿勢のままそれを右手でキャッチした。銘柄をみて、首を傾げると今度は私を見る。いつも狡噛が買っている銘柄と同じものだ。

「…どこで買った?」
「内緒」

私が薄く笑うと狡噛は特に何か言うでもなく一本口にくわえた。ライターで火をつけて、先程と同じように紫煙を吸い込む。
ねぇ、それどこで買ったと思う?
昔佐々山にお使い頼まれたときにおしえてもらった店だよ。まさか狡噛があの人と同じ銘柄を吸ってるとは思わなかったから、なんとなく狡噛の吸ってる銘柄を見たときはいたたまれない気持ちになった。

「煙草って美味しい?」
「まぁ、習慣になってるからな。美味いとかそういう話じゃない」
「ふーん…健康を考えると、百害あって一利なしだと思うけど」
「お前には一利なくても、俺には一利あるんだ」
「…そう」

狡噛が少し笑う。

「なまえは変わらないな。酒も飲めないんだったか」
「飲めないんじゃなくて飲まないだけですー」

狡噛がまたふっと紫煙を吐き出す。薄い靄のようなそれがオフィスの空中を静かに漂った。換気扇を回していてもあまり意味はなさそうだ。これじゃあ私も受動喫煙してしまう。

「煙草かぁ…」

聞こえないようにぼそりと呟いたつもりだったのだけれど、彼の耳には届いてしまったらしく刺すような視線が私をとらえていた。
彼はときに本当の猟犬のような顔をする。それは多分、佐々山のデータに残っていたマキシマという男を捕まえること…それだけが彼の脳を支配するようになったからで。
狡噛は黙って紫煙を燻らせた。

狡噛慎也という男は日を増す毎に佐々山光留に似ていく。
昔はスーツをきっちり着こなしてボタンもきちんととめていて、ネクタイだってしっかりしていたのに。今の彼はシャツの襟はだらしなく開いているし、ネクタイだって緩くしめている程度だ。煙草も吸わなかった。
私がかつての完璧な男だった狡噛を今の彼に求めるのはお門違いだということはわかっている。でもなんだか、今の彼を傍でただ見ているのは無性に寂しいのだ。それは多分、私が彼を誰よりも尊敬していたから。

「…飲み物買ってくる」気まずい空気から逃げ出す理由にしてはいささかお粗末だったかもしれない。
休憩室に入って、自販機でオレンジジュースを買ってみた。ここのところコーヒーばかりだったせいか、オレンジジュースなんて学生の頃以来かもしれない。誰もいない休憩室は静かで、静かすぎて落ち着かないけど今の私にはちょうどいい。側のベンチに腰かけて、ガラス張りの窓の外に見える真っ暗な夜空とドミノみたいに並んだ高層ビルを睨み付けた。
オレンジジュースを口に含むと思いの外美味しくて、飲み込んでからまじまじと缶を眺める。知らないメーカーだ。

「おいし…」

俯いて苦笑いすると、目尻から一粒だけ涙がぽろりとこぼれ落ちてきた。慌てて指で拭う。
十代の青い恋愛じゃないんだからと笑われそうだが、私の心臓がいつもより少しだけ速く脈打っているのは明らかだった。胸元をそっと撫で下ろして、小さく息を吐く。さっきよりは落ち着いたけど、まだ変な感じだ。…なんて不毛なことしてるんだろう、私。こういうのを恋ということは知っていた。志恩がおしえてくれただけなんだけど。

「あーあ…もっと早くにすきって言えばよかった」
「誰に?」

びっくりして振り向くと、不機嫌そうな顔の狡噛が休憩室の入り口の扉にもたれて立っていた。
嘘でしょ、全然気づかなかったんだけど。音もしないし。彼はさっき私があげた煙草をくわえていた。こちらに近付いてくると私の横に少し距離をあけて座り、先程の私と同じようにガラス張りの窓の向こうを睨み付ける。
バカの一つ覚えのようにシビュラシステムにすがり付き、それが正しいと思い込み、のうのうと生きている人間達はひどく滑稽に見える。それは公安局に勤めるようになって学んだことだ。その中で一際高い厚生省公安局ビル…通称ノナタワーで監視官として働いている私もシビュラシステムに踊らされているそのバカのうちの一人に入るのだから、やってられない。

「…秘密」
「そればっかりだな、なまえ」

躊躇いがちにもう一度狡噛を見ると、彼は渋い顔をして足を組んでいた。相変わらず外を眺めている。一度も私を見ない。一体何をしに来たんだろうか。

「そうね。そういうお年頃なのかも」
「そうか」
「…どうしたの」
「何が」
「煙草ならオフィスで吸ってて良かったんだよ」

私がそう言うと彼は眉間に皺を寄せてやっとこちらを見た。極めて遺憾だ、とでも言いたげな顔だ。

「…お前が泣いてるような気がしたから」
「え?」

立ち上がると、さっさと戻るぞ監視官、と声をかけて休憩室から足早に出ていってしまった。彼は私の気持ちなんて何も知らないだろう。知らなくていい、どうにもならないことなんだから。

「それにしても…元気出せって言いたいなら、そう言えばいいのに」

だからこそ、私はずっと狡噛慎也に憧れていた。これからもずっと憧れているのだろう。

また頬をつたった雫を軽く拭って、私はベンチから立ち上がった。
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