3 | ナノ


油に濁った青銅色の湖に、彼女の頭がぷかりと浮き上がった。ゆらゆらと蠢く髪の一本いっぽんが、まるで私を突き刺す棘のように見えた。なんと美しく傲慢な人だろう、と彼女の生前何度も思ったのに、今は、もう、影もかたちもない。
ああ、彼女は馬鹿だ。救いようのない阿呆だ。
今この瞬間ですらも移ろい、変わりゆくこの世界で、私だけが不変でいられるわけなどない。輝き、決して穢れることのない自分を信じていた彼女。模倣を自らの特性と、考えを違えてしまった彼女。
いとおしい、いとおしい、私の璃華子。

申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。


私は、璃華子の全てを愛していた。
一卵性の双子であるというのに、常に私は璃華子を見上げる、いや、それすらも躊躇される立場に居た。
彼女のような芸術性も知能も社交性も美しさも、私はなにひとつ獲得しなかった。著名な画家であった父は、私達のアンバランスさがなによりも好ましいようだった。
「お早うなまえ。今日はとてもいい天気よ。」
全寮制のこの学園で、入学して直ぐにその美貌で他の少女達を魅了した璃華子。彼女と同室になりたい子が余りにも多すぎたからか、クラスは違えど、私達はまた同じ空間で寝食を供にしている。
「まだ寝惚けてるの?」
くすくす、と小首を傾げて笑う彼女にぼう、と見とれていると、彼女が私のセーラー服を持ってきてくれた。ああ、なんと満ち足りた朝だろう。
「また図書室で本を借りてきたのね。今度は…太宰治、ね。深夜の散歩も、程々にするのよ?」
「…璃華子もね。」
「…あら、妬いてるの?」
私の返した言葉に妖艶に微笑んだかと思えば、リボンを結んでいた私の手に己のそれを重ね、そっと顔色を伺う。
「やめてよ。」
ふい、と私がそっぽを向けば、また、微笑む。
「やってあげる。」
私は、彼女の全てを愛してる。だから、私が絶対に知ることのない彼女は嫌いだったのだ。
目が、合う。
私の挑発的な笑みが、彼女の水晶のような瞳に映っている。
「はい終わり。食堂、行きましょう。」
璃華子に手を引かれるまま、ステンドグラスの赤や青が零れる廊下を歩き出す。朝食に一番遅くやってくるのは私達だと、もう皆知っているから、二人で大きな扉を開ければ、喧騒が璃華子に吸い込まれていく。
王陵先輩だわ。
すてき。
密やかな思慕の情が食堂を走る。シャンデリアの反射を背にした彼女は、まるで本当に聖女のようで。
これ以上璃華子に彼女達が魅入られるのが耐えられず、璃華子に気取られぬようにクラスの友人の元へ向かった。


「やあ。今は授業中ではないのかい?」
「…自習になったから、レポートを書こうと思って。」
重くしっかりとしたドアを開けると、図書室の新住民が顔を覗かせる。
「なにがテーマだい?」
「…『シビュラにおける、特例の人物の有無』、なんて。」
「面白いテーマだね。きっと書き上げられることはないだろうけど。」
そう。この世界には璃華子のような、飛び抜けて美しいものがいるように、特例であるもの達がいるのだ。そして、シビュラという唯一神が闊歩するこの世界では、特例は崇拝され、淘汰されるもので。だから、私はこの男と共に秘密を共有した。
「こんなにも逸脱したことを思考しても、神託の巫女は僕達を射殺すことはない。王陵なまえ、僕達はこの世界を終わらせる為に在るのだと、考えたことはないかい?」
「ないわ。」
挑発的な笑みを彼に向けた。ぱたりと本を閉じる音が響く。ああ、どこかで聴いたことのある音だと思っていたけれど、漸く合点がいった。この音はまるで、椿の首が落ちる音に似ている。
「『私は私の生き方を生き抜く。』」
璃華子の傍らに在ることだけで、私はきっと、寒椿のように咲き誇れる。

「まあ、璃華子先輩だわ。」
「素敵ねぇ。」
廊下を颯爽と歩む璃華子に視線が集まり、自然と、彼女の両脇に控える女生徒達には羨望の眼差しが刺さる。なんと愚かな信望者達だろう。さながら、まだ新鮮な血肉に群がるハイエナのように。
彼女と最も近く在りたいのならば、彼女と対極に為る他、道はない。
「(それだから、)」
私はユダになど成れない。

[他になにか…怪しい人物などは見かけませんでしたかー?]
「…見覚えのない生徒が、紛れ込んでいるような気がします。」
間の抜けた声で、ほぼ核心的なことを聞いてくるコミッサ太郎を、なまえは憐れみを含んだ目で見ていた。刑事という職務は何故あるのだろう。
聞いた話によれば、刑事は二つに区別される。実際に犯人と同じ場所で深みに潜入する執行官と、それを制御する監視官。シビュラが産み出した矛盾のひとつ。
きっと、中の人物は刑事として相当な実力があるのだろう。だからこんな姿をして捜査をしなければならなくなり、なまえは警戒してしまう。そして中の人物はなまえに疑心を向ける。とどのつまり、悪循環。
[その生徒さんの詳しい特徴を教えてもらっても宜しいですかー?]
「ショートの髪で、左側が口元までの長さ。背は高くて…柴田先生よりもあるかも。」
[柴田先生とは?]
「ああ、すみません。先月に赴任してきた美術の先生で、この学園の先生達の中で一番長身だと思います。そうすると…180はあります。」
[…ご協力ありがとうございましたー]

「っ璃華子!?」
廊下を猛スピードで駆けてくる璃華子。一体なにがあったのだろう。いやな想像が頭を掠める。けれど、すれ違うその瞬間、彼女の瞳が私ではなく、あの真白の男を求めているのだと判って、私はただ動けずにいた。例の、謎の女生徒に連れられる璃華子の瞳は期待と希望に充ちていた。

あの男はどこだ。
「っ柴田先生、」
「やあ。君は騒ぎを見に行かないのかい?」
「…貴方こそ。璃華子が、公安局に捕まりそうなんです。貴方の、不手際のせいでね!」
「何故?君が彼女を追い詰めたというのに。」
「――――え?」
自覚が無いようだね、とごちる男を、気味が悪いと言うようになまえは見た。
「君が公安の犬にチェ・グソンを密告しなければ、王陵璃華子が目を付けられることはなかった…。」
「…そん、な。」
信じたくない。
駆込み訴へ。私は銀三十であの子を売ってしまった。私はユダになってしまった。
「…璃華子の居場所を教えて。」
「ほう?何をしようというんだい?」
「私はユダ。けれど、まだあの子はそれを知らない。私はあの子にパンを当てられるまであの子の傍らに居る。」
きらり、と男の目が光る。手首を捻りあげられ、剃刀の冷たい感触を首に感じた。
「一番最初に公安が目をつけていたのは、君だよ。王陵なまえ。」
「は…」
「君が何よりも愛する、王陵璃華子が、君を、売ったんだ。」
聞き分けの無い子供をなだめるように、その男は静かに言った。口元に微笑をたたえて。
「よく考えることだ。君がそれでも彼女を助けたいと言うなら僕は、止めない。」



目が合った。

その瞬間彼女は、私だけの笑みを浮かべた。
心に鉛が詰め込まれたような気がした。ああ、わたしのものだったのに。あなたはまた、うばっていくのね。おとうさまの愛も、みんなの愛も。そして、わたしだけがもっていた愛を。
散弾銃に吹き飛ばされる、その瞬間、確かに彼女は私の笑みを浮かべていた。
彼女は太陽だった。その対極の私は月。
陽と、陰がその瞬間に合わさる。それはひとつの完璧を表していた。神のように。
全てを獲た彼女。さながらそれは、女神ニケのようだと。
最後まで私だけのひとだったのだと、今なら言える。だから、彼女は永遠にならなければならなかった。
さようなら。
さようなら。
このせかいにひとりだけの、わたしのいとしい片割れ。
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