なまえというのはよく泣く女だった。人の為に。自分は悲しくなくても、誰かの悲しみを共有して涙を流すそんな女だった。
「槙島くん」
手元の文章はなまえが僕の名を呼んだ瞬間、ただの文字の羅列に成り下がった。視線をあげると彼女は泣きそうな顔をしていた。ここには僕と彼女しかいないのだから、誰かの悲しみを共有したわけではないだろう。
「私がいなくなったら、槙島くん泣いちゃう?」
「泣かないよ。今まで通り過ごすだろうね」
なまえは他人を悲しませることに関しては、人一倍もはや神経質といっていいくらいだった。もし僕が泣くと言ったら、彼女は泣いただろうか。僕はいつだって誰かの為に泣くなまえを偽善者だと嘲笑いながら、唯一彼女を悲しませない存在でいたかったのだ。
「そっか。よかった」
安心したような笑顔で彼女は続けた。
「私ね、たぶん近いうちに矯正所に入ることになりそうなの。頑張ってストレスケアしてるんだけど、なかなかね」
薄々気付いていたが、なまえのサイコパスはすっかり濁っていた。僕はへぇ、そうとつまらない返事を返すだけだった。
「人の為に涙を流す君が潜在犯だなんて、とんだ皮肉だね」
「かもね。だからきっとその内出てこれるかもしれないから、その時は、またこうして会ってくれる?」
「もちろん。君が望むなら」
幾分か疲れた顔をして去るなまえに気付けば言っていた。
「手紙を…書くよ」
「うん。待ってる」
「久しぶり」
儚い願望に過ぎないと思っていた再会はなまえがいなくなって二年目の春に訪れた。随分とやつれてしまった姿に思わず眉をひそめた僕に、彼女は苦笑いして痩せて綺麗になったでしょ?なんて冗談を言ってみせた。
「槙島くん。私、あなたの手紙のお陰でここまでこれたの。ありがとう」
近況を書くわけでも、励ますわけでもなく、検閲でパスされるであろう書物の紹介や感想しか書かなかった、今となってはやや古風な通信手段は彼女のバックの中で一つに纏められひっそりと大切にされているらしかった。
「あの真っ白な部屋で、ずっと一人で、でも槙島くんの手紙と教えて貰った本を読んでいたら一人じゃない気がして…。本当にありがとう」
「そう、それはよかった」
「…それでね、お願いがあるの」
嫌な、予感がした。
「出所祝いに僕にできることなら何でもしてあげるよ」
「やめてよその言い方。私が犯罪者みたいじゃない。…あのね、私、死のうと思っているの」
春の風のような朗らかな声だった。あぁ、嫌な予感というは当たるものだ。
「どうせまたあそこに戻ることは目に見えてるし、また運良く出られるって保証もないし。…ちょっと、疲れちゃった。だから、ね、私が死んだら馬鹿な女がいたなって覚えていて欲しいの。槙島くんにだけは覚えていて欲しいの」
「…どうして?」
「それを聞くのは野暮ってもんでしょ?」
彼女は笑った。完璧なまでに。そして、泣いた。泣きながら笑うなんて器用な奴だ。ああ、それよりついに泣かせてしまったなと心は至って冷静で、それなのになんだか目頭が熱かった。
「ねぇ槙島くん。私がいなくなっても、笑っててくれるよね」
「ああ。君がいなくなっても、今まで通り過ごして笑ってるよ。…僕は、君のためになんか泣かないよ。君のためになんか、泣いてやるものか」
ありがとうと去っていった死に行くなまえを見送る僕は、彼女の願ったように、彼女をきっと忘れないだろうし、今までと何も変わりはしないだろう。ただ一つ、もう一生聞くことのできない質問がいつまでも心のどこかに引っ掛かり続けるだろう。
ねぇ、なまえ。君は僕のついた嘘に気づけていたかい?