3 | ナノ
ああ、死んでしまう。
窮地に立たされたわたしの頭は恐ろしいほど空っぽで、息をしろという命令すらわたしの身体にしてくれない。わたしは今、呼吸をしているのか?そんなことすら分からない。何も、分からないのだ。
ただ、さっきまでの記憶ではわたしの足元は血の海、死体がごろごろと転がっていて。それを目にした瞬間からどれぐらいだろうか、のどが痛くなるほど大声で叫んでいた。きっとそのせいだろう、口は開いているのに声が出なくて。のど元に突き付けられた刃物の感覚が全身を震わせるけど、今一番言いたい言葉が出てこない。
「助けて。」って。言いたい。誰に?
…絶対に思い浮かべてはいけない人の顔が浮かんでしまい、思わず瞼をぎゅっと閉じる。
真っ白な頭に浮かんだ、もう随分と会ってない男の影。でも、今のわたしの気持ちの救いは彼であって、彼しかいない頭の中で何度も何度も「助けて、」って叫んで。






「…こちらハウンドスリー、犯人の排除と人質を1人保護した。」


あれからどれだけ時間がたったのだろう。長く重い時間を過ごした気がしたけど、目をうっすらと開ければ真っ暗な黒に視界が変わっていて。何を言っているのか分からないけど、聞こえてきた声が豪く懐かしい気がして耳の奥が熱くなる。


「大丈夫か?」


二度目の言葉を聞いて、確信する。わたしはどうやら死んでしまったみたいだ、と。だけど、ばくばくと張り裂けてしまいそうな心臓や、震える指、足、腕、肩、唇がやけにリアルな感覚で。突き付けられた冷たいナイフの感触ですらまだのど元に残っていて、息苦しい。もしかしたら、この期待はすぐ目の前にやって来ているのかもしれない。目を開けて目の前の真実を確かめようとするけど、じわじわと溢れ出てくる涙が邪魔をする。


「あんた……なまえか。」


涙で滲む視界に映る、あの頃と何も変わらないぶっきら棒が少し驚いたように目を丸めていた。確かに呼んだ、彼はわたしの名前を。瞳からはぽろぽろと涙が零れていくけど、この涙は一体何の涙なのかよく分からなくて。


「せん…ぱ、い……っ」


怖くて、苦しくて、辛くて、嬉しくて、震える唇で確かめるように呼んでみる。わたしを抱きかかえた状態の先輩が、すごく優しい顔をした気がした。


「せんぱい…慎也せん、ぱい……」
「ああ。」


返り血のついた先輩のジャケットの裾を力のない手で握って、怖かったナイフの感触を忘れるように先輩の胸で泣く。この匂い、何年振りだろうか。恐怖から出る涙は、いつしか肺一杯に吸い込んだ先輩の匂いが懐かしくてうれし涙になっていく気がして。
ずっと会いたかった。何年経ったって忘れることができなかった。いつの間にか別れてしまい、どこか遠くへ行ってしまった先輩を、わたしは未だに愛していた。
あの頃と何も変わらない、優しい手つきでわたしの頭を撫でてくれる慎也先輩。ぐちゃぐちゃになった感情を呼吸を整えるように落ち着かせる。


「久々の再会だってのに嫌なもん見せちまったな。」
「先輩…ほんとに刑事に、なってたんだ…」
「………」


学生時代の、本当に遠い記憶なのに、ついこの間先輩が言っていた言葉のように思えて。だけど、先輩は喜ぶわたしに少し悲しそうな笑みを浮かべる。くっと胸につっかえるような先輩の表情に、何も言えなくて。わたしの髪に絡めていた指がすーっと抜けていくと共に、とてつもない寂しさが襲い掛かる。


「帰ったらすぐにカウンセリングを受けろ、いいな?」
「…そのあと、」


先輩はもう一度会ってくれますか?
そう訊ねようとしたわたしは唇を思わず閉じてしまった。
こんなにずっと想いを馳せていたのに。もっともっと、会えなかった今までに一体何があったのかとか、今はどうして過ごしているのかとか、ゆっくりお話でもできたらって…もう二度と離したくない、離れたくないと思ってしまったのに。


「狡噛執行官、」
わたしの言葉を遮るように響く、きっと先輩を呼ぶ同僚の声。
思わずわが耳を疑った。先輩が…あの、慎也先輩が…そんなわけない。昔、先輩が教えてくれた、公安局の刑事課は潜在犯である執行官を連れてるって。
何事もなかったかのように振り返って、誰かと話している慎也先輩はあの頃と同じ慎也先輩で。潜在犯だなんて、信じられなくて。
もう大丈夫ですよ、と優しくわたしに話しかける若い女の子にわたしを預ける先輩。待って、離れていかないで。だけど、死の直面まで追いやられたわたしの身体は筋肉がまだ緊張していて上手く動かない。一歩、一歩とわたしから遠ざかっていく先輩の背中に、胸がぎゅっと押しつぶされそうになる。
先輩、待って…、そう小さく声を出せば、遠くなる先輩の足がぴたりと止まる。だけど、先輩は振り返ることはなくて。


「もう二度と会うことはない。」


そう言い放った先輩の言葉に、理由を問うことはできなくて。
再び一歩一歩とわたしから離れていくその後ろ姿を、何も言えずにただ涙を溜めて見つめていることしかできなかった。




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