2 | ナノ
平凡な毎日に、非凡な刺激を。

くすんだ空から雨が降る。一向に止む気配もないそれは、ひたすら俺の身体を濡らす。ありとあらゆる醜いものが闇に沈んだ午前二時。しとしとと柔らかな雨垂れは、水たまりを踏む足音で呆気なくかき消された。レイドジャケットを羽織っているものの、スーツの裾は雨を吸い始めている。ここに到着してから走りっぱなしだが、幸い息は上がっていない。きちんと結んだネクタイが煩わしく、思わず溜め息をこぼしてしまう。

当直中に足立区に位置する廃棄区画でエリアストレスの上昇が警告されたのは、約三十分前のこと。現場へ駆けつけた俺とみょうじは、すぐさま捜索を開始した。廃棄区画で暮らす住民の多くは、夜を好む傾向がある。現状から目を背けたいなら、全てを闇で覆い隠せばいい。無知だからこそ救われた人間も、社会には数多く存在する。酔い潰れた者、詐欺紛いの賭け事に興じる者には何人か出くわしたが、執行対象はまだ見つけられずにいた。

相手が誰なのかもわからないまま、デバイスが指し示す方向へと急げば、今にも崩れそうな雑居ビルに辿り着く。古びて埃っぽいそこに足を踏み入れると、上の階から硝子が割れる音がした。

「…上か」

ドミネーターを構え直した俺は、オーダーメイドの革靴で素早く階段を駆け上がる。デバイスを見る限り、みょうじは既にビルの内部で待機中だ。現場に到着し、護送車から降りてドミネーターを手にした直後、みょうじは一人で行方をくらませた。勿論単独行動を取っているわけではない。執行対象を挟み撃ちにしようと提案したのは、監視官である俺だ。手元のデバイスは四六時中、執行官の位置情報を表示している。当然、みょうじも例外ではない。廃棄区画の地理に詳しい彼女は裏道でも使ったのか、とっくにこのビルへ潜り込んでいる。俺とみょうじの位置情報があと少しで重なり合う、その直前で甲高い悲鳴が響き渡った。サイコハザード、机上の単語が脳裏に浮かぶ。研修で頭に叩き込んだ知識は、いざ現場で使うとどういうわけか薄っぺらい。冷静にならなければと思う一方で、心臓は愉快げに鼓動を速めていく。

ふいにデバイスから俺を呼ぶ声がした。

「狡噛」
「何だ」
「執行対象は一人、一人は男で女はもう…結構エグいことになってる」
「俺が到着するまで手を出すな」
「神託の巫女がお怒りでも?」
「おい、」
「まさか撃つななんて言わないよね」

この先に用意された結末を変えられる人間はいない。ドミネーター、シビュラの裁きは絶対だ。最後の一歩を踏み切ると、そこにはドアの陰から部屋の中を狙い、トリガーに指を絡ませるみょうじの姿があった。

「みょうじ」
「ご愁傷様」

抑揚のない台詞は、一体誰に向けられたものなのか。考える間もなく、ドミネーターは機械的に相手の犯罪係数を読み取り、エリミネーターへと変化した。みょうじがトリガーを引く瞬間、ようやく彼女に追いついた俺は執行対象の末路を目にする。体液が沸騰し吹き飛ぶ身体に、現実味はない。男は即死、被害者であろう女も息絶えている。返り血を顔面に浴びたみょうじは遠慮がちに深呼吸をした。

「…終わったのか」
「多分」

スーツの袖口で目元を擦る彼女は、生臭い匂いに包まれている。大丈夫かと言いかけたそのとき、第三者の気配を察して振り向けば、背後には血に濡れたナイフを握った男が立ちすくんでいた。歯を震わせながら笑みを浮かべているところからすれば、誰か殺した後なのかもしれない。事情を察するより先に、ドミネーターが俺を促す。相手を仕留めろ、それが法と秩序の結論だ。一切躊躇わずに相手を撃てば、たちまち新たな血の雨が降る。執行対象を処分したことにより、エリアストレスはようやく正常値へと戻りつつあった。

「さすがエリート監視官様」
「最初の一人はおまえの手柄だろ」
「笑えるな、その言い方。上司あっての部下、監視官あっての執行官。それだけなのに」

皮肉っぽく呟く彼女は、年相応の顔をしている。子供の頃サイコパス検診に引っかかったというみょうじは、外の世界をまるで知らない。退屈な隔離施設から出られるなら理由なんて何でもいい、そんな調子で執行官になったという。ある意味天真爛漫な彼女が部下となり、監視官になって日が浅い俺は悪戦苦闘を強いられていた。佐々山といい、彼女といい、公安には変わり者しかいないのか。そう嘆きながらも、みょうじの直感や思いつきの言葉に、度々はっとさせられる。執行官とはどんな要素を持っているのか、今はうまく言葉にできない。だが、徐々に理解できるはずだという根拠のない自信はあった。血に濡れたみょうじの頬をレイドジャケットの裾で拭ってやると、彼女は微かに目を細める。

「…汚れるよ」
「この雨じゃ、どうせクリーニング行きだ」

怪訝そうに俺を見上げる眼差しは、華奢な身体と不釣り合いなほど強く鋭い。外の雨音は次第に強くなりつつある。現場はドローンに処理させればいいと結論づけた俺は、雑居ビルを後にして一旦護送車へと戻った。本来なら執行官専用の護送車も、こういうときには役に立つ。常備しているタオルを投げると、みょうじはおとなしくそれを受け取り、頭を拭いた。

「血生臭い」
「もう少し遠くから狙ってもよかったんじゃないのか」
「ああいうとき、返り血のことなんて考えてられない」

ぶっきらぼうに言い放つみょうじの睫毛は濡れて、緩やかな曲線を描いている。潜在犯だろうと、そういうところは普通の人間と何等変わりない。常人と比べて、思考が少々異なるだけだ。

「俺の仕事も少しは残してくれ、給料泥棒にはなりたくない」

所々赤く染まったタオルを取り上げると、みょうじは俺をじっと見上げた。

「狡噛監視官」
「何だ、改まって」
「私、あなたのことは嫌いじゃない」
「…急にどうした」
「狡噛なら、きっと私を撃てるから」
「佐々山と同じこと言うんだな」
「佐々山が私の真似したの」

機嫌を損ねたのか、みょうじは苛立った口調で佐々山への不満を吐き捨てる。嫌いじゃないという言葉は、好きを知らない人間の愛情表現だ。そう理解したのも最近の話で、俺はつい気を許してしまう。執行官、潜在犯、警戒しなくてはならない存在。猟犬の牙を研いでやるのも主人の役目。建前でしかない言い訳を準備した俺は、安っぽい情に溺れる。

「拭いてやる」

タオルをみょうじの頭に被せ、髪を乾かすふりをして唇を寄せた。

一度触れてしまえば、後は簡単だ。
冷えた身体を温め合うプログラムなんて、退化した本能ですら知っている。










密室になった護送車は、外の音を受け入れない。二人の吐息が収まってきた頃、俺はドローンの様子を見てくるため、着替えを済ませて立ち上がった。浅い眠りについているみょうじを起こさないようにと気遣ったつもりだが、猟犬の耳には敵わないらしい。飾らない言葉は、彼女の本音そのものだ。

「雨、止んでる」
「そうか」
「さっきの続き…狡噛は執行官を撃てる?」
「執行官を撃つ趣味はない」
「飼い犬に手を噛まれても?」
「それは、」
「いつか答えを聞かせてね」

狡噛の指は嫌いじゃないから。そんな譫言を呟いた彼女は、再び寝息を立て始める。右手を眺めても、そこには傷一つない。あるのは、答えに触れるための体温だけだ。

「…いつか、な」

低く掠れた俺の声を遠くへ逃がすように、護送車の扉を開けて外へ出る。かさついた指先で、一体何を捕らえるのか。雨が止み静まり返った路地裏で、俺はじっと掌を見続けていた。
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