2 | ナノ
 キスマークという単語を初めて聞いた頃は、こんなにも歪で気味の悪い痕を付けられるとは思ってもみなかった。みょうじは鏡に写る自分の裸体を見つめる。
 皮下で出血したそれはランダムに付けられているように見えて、順序通りに上半身から下半身へと下っていく。首筋に付けられたそれは、やがて一番下は内腿まで満遍なくとはいかないものの部位ごとにある程度の数が付けられていた。
 みょうじは赤黒くなった内出血をなぞって笑う。今はもう、都内では地上の下品な明るさに耐え切れず身を隠してしまった星のようだと思った。
 体に出来た無数の濁り淀んだ星。痕同士、線を引いていけば新たな星座が完成する。これだけあれば、きっと沢山の星座が出来るだろう。幼稚な考えしか出来ないのは、自分が寝起きだからだと言い聞かせた。
 星々が衝突を起こし、消滅する。だが、体に出来た星は衝突を起こさなくても時間が経てば消えてしまうというのに気付けば、それは天体よりも虚しいものだと考える。みょうじは、不思議と赤黒い星が愛おしくなった。
 時とともに薄れ消えてゆく黒にも似た赤色の歪な星は、みょうじの胸に最も多く存在した。
 みょうじは自身の双丘に手を置く。力を加えれば沈んでゆく脂肪質のそれは、他の部位よりも圧倒的に点在していた。
 みょうじは僅かに首を傾げるようにして両胸を見つめる。あまりに多く付けられたそれは、胸を揺らして一塊にすれば皮膚を突き破って痕と同じ色の血を噴出しそうだと考える。それ程までに大小様々な痕が付けられていた。
 みょうじは外側から付けられた痕をなぞっていく。徐々に乳頭へと近付く指はやがてつまらなさそうに離れていく。
 散開星団のように集団で皮膚に己を魅せつける星は、愛おしさはあれど美しさはなかった。それが自身の血によって作られた星だからか、それとも星と比較したのがいけなかったのか。
 永遠に手に届くことはない天体で己を燃やすガスの塊は、光年という光の単位でしか肉眼で確認する事が出来ないからこそ美しいのだ。手に届く、皮膚の下から湧き出た吸引の痕を美しいと思えるのは、ある種盲目的にそれを見つめなければならない。
 鎖骨下に付けられた星を削るように引っ掻く。しかし、星は微動だにせず、爪で皮膚を裂いただけになってしまった。ミミズのように浮き出る淡い桃色のそれは内出血よりも愛らしく感じたが、やはり皮膚に主張するのは星だ。
 流石、皮下で己を燃やして自己主張するだけのことはある。もしくは、自分が付けた痕よりも彼に付けられた痕だから目に入ってしまうのか、
 みょうじは自身の体から目を逸らす。見飽きたそれを隠すようにシャツに手を通すと、意識せずに大きな息を吐いた。
 星だ何だと言っておいて、だったら彼は私の天体では一体どんな役割を得ているのか。ガスや塵を溜めて生成する地味や役回りだろうか、それとも好き勝手に星を作り出せるような全能の神だろうか。
 パンツスーツを履きながら首を振って溜息をつく。
 何を考えているのだろうか。飾り立てた言葉を使って鬱血を持て囃し、己を宇宙と称し彼を神と仕立て上げる。みょうじは、気障でくさい言葉ばかりを並べて満足しようとした自分を戒めた。
 洗面所から寝室へと戻り、未だベッドで眠る狡噛を見つめる。普段の生き生きと獲物狩りを楽しむ獰猛で猟奇的な面を隠して、まるで死んだようにピクリとも動かずに眠る。大人しく枕に頭を埋めて寝息を立てる様はみょうじの視界を満足させるほどの幼い寝顔だった。
「行ってきます、神様」
 根強く残る気障な言葉に自嘲すると、狡噛は聞こえたかのように身動ぎをした。だが、再び呼吸以外の動作をしなくなるのを、みょうじは瞬きせずに見つめて自室から出て行った。

 *

 今朝の気取った思考が尾を引いていた。みょうじは職務中ずっと顰め面で、たまに口を尖らせて細く息を吐く。息を吐く度に体中に滲む星が連動するように疼いた。
 自室へと帰っても顰め面だった。どうして苛立ちを隠すことが出来ないのか、それはみょうじの中で一つの結論に至っていた。自分自身が考えた気障な言葉遊びが原因だと考えたが、案外みょうじ自身はそれが不満ではなかった。
 みょうじに星を作った人物に不満を持っていたのに気付いた時には、目の前に全能の神が立ち塞がっていた。
 上半身を剥き出しにしてジーンズのみを着用している狡噛は、右手に持っていたペットボトルを軽く潰すような音を出してみょうじを見下ろす。
「慎也」
「なんだ」
 狡噛はみょうじの首筋に現れている星を見やすくする為にスーツの襟を捲る。狡噛が着古しているよれたシャツとは違い、皺のない糊のきいた白シャツから覗く赤黒い星。きっちりとスーツを着こなしたみょうじとは不釣り合いな程不純な星を見ると、艶情を誘うような暴力的な感情に蝕まれる。
 狡噛は昨夜の情事を思い起こす。今のような低く冷徹で明らかに不機嫌な声色ではなく、果実を腐らせたような濃厚な甘みのある声を出しながら、覆い被さってきた男の下で体をくねらせる姿は何度見ても飽きないものだった。
 狡噛は記憶の隅を引っ掻いて自身が付けた痕を思い出す。執拗に胸に付けたそれがスーツと下着の下に隠されているのだと思うと、手で暴いて舌でなぞりたくなった。
「これ、縢に見られて散々言われた」
 捲られた襟を整えて狡噛を睨みつける。首筋のそれを指さして、気の強そうなつり目をつくった。いかにも怒っていますと言いたげな表情。
 縢が心ゆくまでみょうじをからかって遊んだのだと思うと、不思議と滲み出してきたのは愉快な気分だった。
「隠せば良かっただろ」
「隠せると思ってるの?こんな見えるところに付けて」
 みょうじは無意識に胸に手を当てる。鎖骨に向かって手を滑らすと、白シャツは硬質な皺をつくって歪められた。
 狡噛はそれをじっと見つめる。白に赤い痕が浮き出るのではないかと、密かに楽しみにした。だが、繊維に守られた皮下のそれを垣間見ることはなかった。
 ふと、みょうじは目の前の狡噛を見つめる。
 朝、惰眠を貪る創造主のようだと比喩し出て行った自分を恥じた。思うがままに付けられた星々を、まるで他人事のように示す狡噛の態度は信仰の対象にもならない。裏切られたと思うと、途端に神を崇める気持ちは失せる。それぞれは、己の身勝手さを棚に上げる。
 胸板に拳をぶつける。強く殴ってはいないが、それでも皮膚同士の弾ける音が快感になるほど部屋に響いた。
 みょうじはそのまま狡噛の胸に唇を寄せる。トレーニング後で湿り気を帯びた皮膚は塩の味をきかせていたが、それに構わず強く吸い付いた。
 心臓があるだろうその場所を執拗に責める。狡噛はただじっとその様子を眺めた。
 胸にキスをした事のないみょうじは、自分の行動がいかに恥ずかしい事なのかを考えていなかった。ただ無心になって吸い付く。乳児が母親の乳首を懸命に吸うように、みょうじは狡噛の筋肉で張った皮膚を吸う。
 唇が痺れ、短い息を吐いた後に顔を離す。狡噛の胸に付いたと思っていた星は多少の血を集めただけの淡い赤色だった。痕と呼ぶには未熟すぎる。
 みょうじはそれを見て、再度吸引する気力はなくなった。
 これ以上の見込みはない。見込んだところで、得られるのは唇の麻痺と軽い息切れだけだ。
 狡噛はその様子を見てただ鼻から息を吐く。そしてみょうじの頭を一撫でした後、持っていたペットボトルをゴミ箱に捨てる為に目の前から去った。
 視界の隅で、狡噛に付けた筈の星が広がって消えていくのが見えた。消滅と呼んでも良いのか迷うほど呆気なく散り散りになる。
 みょうじは下唇を噛み締めた。付けられなかった悔しさなど微塵もない。ただ、その男の体に星を作る事など不可能なのだと身を持って教えてくれたようで寂しかった。
 自分の体には気味が悪いほど蔓延っているのにも関わらず、狡噛には一切つく様子はない。もっと出血の起こりやすい場所にすれば、綺麗に残すことが出来るかもしれない。
 だが、みょうじは胸に拘った。狡噛が無心になって吸ったように、みょうじもまた、狡噛に吸って痕を残したかった。
 狡噛の鍛え上げられた体には星を作ることは無理なのだ。たとえ、情事中に狡噛が意識的にみょうじの体に星を作ったとしても、狡噛は自身の体に星を作らせるような神は必要としていないのだ。
 崇めていたのは自分だけ、狡噛が星を作れば作るほど信仰し求めてしまうみょうじは、今までの自分が独りよがりだったのに気付く。
 もがいて抗うのが人間だと考えたが、無意味な抵抗は虚しさを膨張させるだけだ。そう言い聞かせたが、みょうじは背を向けて新たなペットボトルを出そうとする狡噛を見つめる。
 彼の体は、雲がかかっているから星が見えないだけだ。雲が晴れたら、きっと不気味な星が顔を出す。
 切り替えた視点からものを言えば、気分は高揚した。今はまだ時期じゃない、きっと、いや必ず星が姿を現すはずだ。
 創造主ではなく、地上から口を開いて上を向く人間の視線になる。それは、自分自身をもっと等身大へと近付け、そして星に恋い焦がれて目を輝かせる。
 だが、光の単位でしか捉えることが出来ない自分がいるのを悟ってしまった時、宙に向かって空振りをする人間に成り下がる。
 ひたすらに星を愛し、天体を愛する。目に見えるのに届かないからこそ美しいと感じるそれは、誰も知らない間に星が誕生し、そして消滅するからこそ人間は魅入られる。
 地上にいる人間は、空で輝く塵ほどの大きさのそれを愛するのであって、いざ天体や星を手に入れようとしても大き過ぎてとても手に負えない。
 みょうじはそれさえも知らずに空に向かって手を伸ばし続ける。
 それでも、狡噛の胸には星を作ることは出来なかった。雲はいつまでもかかったままだ。
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