第4回 | ナノ
暗い山林の中に消えていくバイクを見送って、雑賀は小さく息を漏らした。
かつての教え子である狡噛は、己の執念を果たしに旅立った。二度と帰ることはないだろう。
まったく、とんでもない奴だ。狡噛も、そして自分も。
臨床心理学を武器に食べてきた自分が、自らの手で止めを刺した。これまでの生活に手を振る結果となったのは、まさしく自業自得である。言い逃れはできないし、するつもりもない。

「思ったより簡単にひっくり返ったな。これで満足か、みょうじなまえ」

独り言を漏らし、住人の数にしては立派な邸宅のドアを開ける。
久々に用意した来客用のカップとソーサーを片付けながら、雑賀は昔のことを思い出していた。
そう、あれはまだ彼が公安局と繋がっていた時のこと。
今でも忘れられない一人の女性に出会った時のこと。




慣れない白衣を翻しながら、雑賀は貸し与えられたIDを取調室の認証システムに翳した。
緑のランプが光り、ロックが解除される。
四十代とその道ではまだ若いながら、プロファイリングの権威として公安局の捜査協力に応じたのはこれが初めてではない。
むしろ、そろそろ常人の両手の指の本数では足らない数の事件に関わってきた。
今回の事件もたかが指一本分。たとえいつもと違う取調室に案内されたとしても、そう思っていたのだ。

「へぇ、貴方が私を見つけた方?」

彼女は、取調室のガラス越しで電子手錠を付けられた状態で椅子に座っていた。
黒い髪。白い肌とワンピース。唇の赤いルージュが、黒と白を際立たせていた。

「方法は教えたが、最終的に見つけたのは公安局だ。恨んでくれるなよ」
「恨むはしないわ。むしろ会いたかったのよ、雑賀譲二さん?」
「ここにゃ個人情報なんてないみたいだな、みょうじなまえ」

今まで使っていた取調室は、ガラスで空間が隔たれていることはなかった。
それだけ、彼女の存在を危険視しているのだろう。
みょうじなまえ。自らの手で親族を皆殺しにした挙句、自分も被害者を装ってつい先日までどこぞの病院の治療室で横になっていた女。
白いワンピースの下は、恐らく包帯で覆われていることだろう。腹を一突きだったはずだ。
だが、そんなことは気にも留めていないのか、彼女は顎のラインで切り揃えられた黒髪を不自由な両手でかき上げて、赤い唇で妖艶に笑っていた。

「で、俺を呼び出した用件はなんだ? まさか、顔が見たいとかそんな理由じゃなかろう」
「深読みしすぎよ。そのまさかなんだけど」
「狂ってるな、お前さんは」
「褒め言葉ね」

手錠が気になるのか、カチャカチャと手を揺らす。目線の高さはそう変わらないのに、なまえは雑賀を見下ろしていた。

「付け加えるとすれば、私をこーんなところにぶち込んでくれたお礼が言いたくて。どうもありがとう」
「犯罪者に感謝されたのは初めてだ」
「私も、誰かに感謝したのは初めてだわ」
「やはり、狂っている」
「ふふ、そうかもしれない。ねぇ、もう少し近くに来て?」

そう言って、なまえは椅子から腰を上げるとガラスの壁に体を預けて座り込んだ。
ワンピースの裾から細く長い足が伸びる。美しかった。
少し悩んで、雑賀も立ち上がると冷たい床に腰を下ろす。

「貴方、素直ね」
「そう言われるのも初めてだ」

ただ単純に、害はないだろうと判断してそうしたまでだ。
なまえは、ガラス越しに雑賀の輪郭をなぞる。顎の下、首元まで滑っていく指は、横一直線に雑賀の首を切った。

「貴方みたいな人に裁かれるなら、本望なんだけどな」
「ほう」
「年上が好きなの。落ち着いていて、それでいて私を傷つけてくれる人が」
「……父親のような、か」
「あの人は、殺してと言っても殺してくれなかった。目の前でみんな殺してやって、あれだけ追い詰めたのに。だから嫌いになって殺しちゃった」

近親相姦の上の重度な精神異常。客観的に見ればそうだろう。
だが、彼女は己の精神異常を知った上で肯定している。それが自我だというように。

「プロファイリングって面白いわね。私のこと、どれくらい知っているの?」
「本人を目の前にして動揺しないくらいには」
「そう。貴方の脳内にいた私と今の私、なにか違った?」
「強いて言うなら、想像していた以上の別嬪さんだったな」
「視姦してくださって結構よ。もしくは、今夜のおかずにどう?」

大きなお世話だ。
なまえは相変わらずコケティッシュな流し目で雑賀を細部まで観察していた。
自分を見つけ出した男の全てを、今度は自分が見つけ出そうとしているのかもしれない。
ふん、と鼻で笑うと、貴方ってセクシーねと小さく漏らした。

「お前さんが死んでいたら、事件は迷宮入りだったろうな。何故、自分を刺した?」
「みんな白目剥いて物凄い形相で倒れていたから、そんなに痛いのかなって」
「で、感想は?」
「死ぬほどの痛みじゃなかったわね」
「そりゃ、現にお前さんは生きているからな」
「セックスもそうだけど、誰かに逝かせてもらうほうが心地いいんじゃないかしら」
「面白いことを言う」
「貴方はどっち? 逝きたい、それとも逝かされたい?」
「時と場合による」
「じゃあ、相手が私だったら?」
「凶器があるなら逝かせてくれ。そうじゃなきゃ、自分で逝くさ」
「ふふ、面白い人」

こんなことを、しかも殺人犯相手に平然と話しているのもどうかと思うが、確かに彼女がそれを自我だと言い張るとおり、不思議と精神異常者と話している感覚が薄かった。
みょうじなまえという一人の女性と話している。得体の知れない感覚だった。

「残念だが、お前さんはそう簡単に死ぬことはできない。隔離施設で細々と暮らすことになるだろう」
「さっきも言われたのよ。私を生かすなんて、みんな物好きね」
「なかなか興味深い人材だからだろう」
「私が? あっははは、それはどうも」

余程おかしかったのか、目から涙を流しながら彼女は笑っていた。
一頻り笑って、漸く治まった頃に現れた静寂。なまえはまた、髪をかき上げる。
電子手錠の隙間から、小さな耳が見えた。ピアスホールが一つもない、清楚な耳だった。

「ねぇ、雑賀譲二」
「なんだ?」
「私を探しながら、貴方は何を思っていたの?」

僅かに掠れた声は、雑賀の答えを待たずに続けて問いかける。

「あの人たちを何回殺した? 私を、何回殺した? 何回目で、私を殺せなかった?」

何回だろう。犯人の軌跡を辿り、その殺しの手口を思い浮かべ、被害者であった彼女は絶叫と共に倒れていった。
それがいつしか、彼女の軌跡を辿り、彼女の視界で倒れていく人間を見つめ、そして彼女は、薄ら笑みを浮かべて己に血に濡れたナイフを突き刺した。

「私、どんな顔してた?」
「……笑っていたよ」
「貴方は私をよく知っている。ご名答よ、まさしくその通り。自分でも覚えているの」

こんな顔でしょう。そう言ってなまえは意地悪い笑みを作ってみせたが、雑賀が見たあの笑みとは少し違ったものだった。
そこで漸く、彼女の知らない彼女の内側が見えた気がした。

「みょうじなまえ」
「なに?」
「こういう台詞はあまり好まないが致し方ない。確かにお前さんは狂っている。だが、それと同時に可哀想な人間だよ」
「……貴方、本当に面白い人ね」

一瞬眉を顰めて、その一瞬後にはもう忘れたように口元を歪めて笑う。
実に、笑いで感情を表すのが上手い。それは意図的でもあり、無意識でもあろう。
彼女は笑いながら、明らかな不快を雑賀に向けていた。

「どうしてそう思うの?」
「さっきの笑い方が全てだ。君は狂った自分でいたいんだろうな。己の理想を意地でも貫こうとしている。俺が見たみょうじなまえは、自分を殺したがっていた。これで終わると、悲しそうに笑っていたよ」
「妄想癖でもあるの? 実際に見てもいないのに、随分断定的に言うのね」
「人間、正面と背面がある。自分の肉眼で全てを見ることは叶わない。だが、他人には全てが見える。俺は、他人の目に徹するのが専門でね」

鏡か何かを通さなくては、背中はもちろん、自分の顔だって見えやしない。
なまえが作ってみせたあの意地悪い笑みは、彼女が思い描いている狂った自分のイメージでしかない。それを、彼女は覚えていると言った。正確には覚えているのではなく、作り上げているだけだ。
なまえは、それに気づいていないのかもしれない。いくらか冷気の篭った目で、雑賀をじっと見つめていた。
この男は一体何を言っているのか。そんな目だった。
みょうじなまえが、みょうじなまえの隠れた本能に気づくには恐らくまだ時間がかかるだろう。
自分に狂わされたまま、独房で一生を終えるのかもしれない。

「はぁ……妄想に負けた人間の気持ち、わかる?」
「なんとでも言え。もう会うこともないだろうからな」
「もし、また会ったらどうするの?」
「その時は、俺も狂っている人間の仲間入りだ。どうすると聞かれても、未知数だね」
「いつか答え合わせしましょう。私を悦ばせる結果であれば、貴方の評価を下方修正したこと、撤回してあげる」

なまえは、ガラスの壁にはぁっと息を吹きかけて曇らせると、指で中心から渦巻く円を描き、雑賀を覗き込んで微笑んだ。
いちいち、人を弄ぶ仕草が板についている。ガラス越しにこんっと猫のような瞳を突いてしまうのは、彼女のペースに飲み込まれている証拠なのだろうか。
こんな人間と一つ屋根の下で共にあれば、禁忌を犯したくもなるのかもしれない。
だが、雑賀もこの時は、そんな彼女と肩を並べるつもりは毛頭なかったのだ。
なまえは再び、手首に纏わりつく電子手錠に興味を移した。呼び出した本人がこの態度だ、この場で話すことはもう尽きたのだろう。
冷たい床に腰を下ろしていたせいか、少し冷えた。立ち上がって白衣についた皺を伸ばしても、なまえは雑賀に見向きもしなかった。
カチャカチャと、手錠が鳴る。外そうとしているわけではなさそうだが、その仕草は酷く幼く見えた。
きっと彼女は、今のその自分の表情も知らないのだろう。

「ねぇ、雑賀譲二」

背を向けて二歩、三歩と遠ざかりかけた時、なまえに呼び止められる。
立ち止まって自分の肩越しに振り向くと、なまえもゆっくりと視線をこちらに向けた。

「どうしてかしら。また会えそうな気がするの。だから私、貴方を忘れないわ」

何を言っているんだ、と言いかけて雑賀は口を噤んだ。
言葉とは裏腹に、彼女が浮かべていた笑みが己の最後を望んだあの笑みだったからか。
それとも、彼女の言葉に、得体の知れない狂気を感じ取ったからか。

「勝手にしろ」
「優しいのね」
「はぁ、その思考回路は理解に苦しむ」
「……ねぇ、雑賀譲二」
「今度はなんだ?」

埒が明かないと、体ごとなまえに向けた。
いつの間に、立ち上がっていたのか。なまえは手錠を嵌められた両手をガラスに押し当てている。
それ以上前に行けないのはわかっているだろうに、惜しむように、縋るように。

「貴方まで、私を逝かせてくれないのね」
「……じゃあな。天地がひっくり返ったら、また会おう」

もう一度、背を向ける。雑賀がドアの向こうに消えても、なまえはその背をずっと追いかけていた。
今まで出会った誰よりも、彼は狂った自分を知っている。なまえがあの日見たものを、なまえ以上に知っている。
まるで、鏡のようだ。合わせ鏡をすれば、見えないものも見えるようになる。

「待ってるわよ、雑賀譲二」

警備員に引き摺られながら、なまえも部屋を後にする。
通路には、女の高い笑い声が木霊していた。




槙島は死に、狡噛は未だ失踪中。
狡噛の容疑に関与した雑賀は、自ら公安局に出向き、隔離施設の門を潜った。
恐らく終の棲家になるであろう独房に向かう途中、通路に並んだドアを内側から強打する音に、雑賀も先導していた施設の職員も思わず足を止めた。

『雑賀譲二』

外部と内部を繋ぐマイクを通して聞こえた声に、雑賀の口元は弧を描いた。
出会いから長い歳月が流れたというのに、ドアに取り付けられた窓を覗き込む顔はちっとも変わっていない。
まるであの日のように、ガラス越しに悪戯に微笑んでいた。

「どうやら、お前さんの勘は当たっていたらしい」
『当然よ。貴方は私を知っている。私も貴方を知っている』
「言っとくが、一緒にはしないでくれよ」
『ふふ、相変わらず面白い人ね』
「下方修正したんじゃなかったのか?」
『私を悦ばせたら撤回すると言ったはずよ』

突然始まった会話に、付き添いの職員は酷く困惑していた。
だが、なまえが人差し指を唇に当てて片目を瞑ると職員は二歩ほど下がって押し黙る。
職員まで手懐けるとは、ここで帝国でも築いているのだろうか。

「つまり、悦ばすことには成功したってか?」
『ボーダーラインぎりぎりってとこね。おめでとう』
「そりゃどうも」
『ねぇ、もう少し近くに来て?』

あの時と同じだ。こうやって吸い寄せられる。
ガラス越しに、自由な指先が雑賀の頬を撫でた。

『近くで見ると、ちょっと老けたわね。まぁ、問題ないわ……ねぇ、雑賀譲二』
「なんだ?」
『今度こそ、逝かせてくれるんでしょう?』

頬を滑った指は、雑賀の唇を突く。

「そりゃどっちの意味だかね」
『貴方の好きなほうでいいわ。安心して。私にかかれば、独房なんて意味ないから』
「相変わらず狂っている」
『褒め言葉って知ってて言ってるの?」
「どうだかな。だが、お前さんに言いながら自分にも言っている」
『ふーん。ならいいわ。狂っている人間同士、仲良くしましょう?』

ガラスを離れた指が今度は自身の唇に触れる。間接的に重ねたような甘さが背中を走った。
忘れられなかったのは確かだが、こうも簡単に感情は高鳴るものなのだろうか。
年の癖して、情けない。いや、年だから彼女は自分に興味を抱いているのだろうか。

『あの時、逝かなくてよかったわ』
「逝かなくて、か。本能が死を求めていたことは認めるんだな」
『でも、私は可哀想な人間なんかじゃない。それは貴方の誤算よ』
「認めざるを得ないようだ」

目を合わせて、笑い合う。天地がひっくり返ったのだ、それに比べればこの状況なんて可愛いものだろう。
雑賀の背後にいた職員がさすがに痺れを切らしたのか、作業靴のつま先が床を叩いた。
束の間の逢瀬。束の間の再会。
背を向けた雑賀を、なまえはあの時のように呼び止める。

『雑賀譲二。いずれまた、会いましょう』
「お手柔らかに頼むよ、みょうじなまえ」
『どうかしら。私、狂ってるから』

そう言って、なまえは徐にガラスに口付ける。
赤いルージュのキスマースを残して、なまえは姿を消した。

「本当に、狂ってやがる」

もちろん、自分も。
キスマークに背を向ける。雑賀は改めて、自分がこの隔離施設に来た意味を噛み締めていた。



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