第4回 | ナノ
すれ違った常守から煙草の匂いがして、思わず後ろを振り向いた。


「……みょうじ監視官? どうかしました?」


立ち止まった私の気配に感付いたのか、常守も足を止めて私を振り返った。
私の感じている、意味の分からない程高揚した焦燥感とは裏腹に、彼女はただただ私に対して疑問符を浮かべているだけだ。


「……ごめん、何でもないよ」


悪かったね、用もないのに呼び止めるみたいなことして。
そう言って片手を挙げると、いえ、大丈夫ですよと笑みを浮かべて、常守はしっかりした足取りで一係の執務室へと歩いて行った。
そんな彼女の背中を、私は見えなくなるまで目で追った。
シビュラを象徴する交差する蛇のマークが、その背に描かれている。
私も同じものを背負っているのを思い返しながら、常守の纏う香りで引き出された、もうこの世界から弾き出されてしまった一人の男について思案を巡らせる。





会えば会釈を交わす程度の同僚。
私と常守は、そんな間柄だった。
しかし一つだけ、共通点がある。
狡噛慎也と馴染みなことだ。
私は奴と同期。一時期宜野座も一緒に仕事をしていたときもあったが、それは長く続くことはなく、私だけ先に余所に異動になって以来、同じ事件を追ったことはない。
常守は今年新人で配属されてから、ずっと一係であいつの面倒を見ていた筈だ。
ーー狡噛が離脱するまで、ずっと。


「……常守も忘れられないでいるのかなあ……」


日勤シフトを終えた後、自宅に帰り電気も付けずに上着だけを脱ぎ捨ててソファに膝を抱えて座る。
テーブルの上には、この部屋での唯一の光源。
適当に買ったごつい灰皿に横にくべた、火を付けた煙草が一本。
風のない室内で、真っ直ぐに立ち上る煙を目で追う。
上に上るにつれてぼんやりと消えていくそれは、その香りを常に纏わせていたあの男を思い起こさせる。


ーーったく、どこ行ったんだよあのアホは。


槙島の事件が収束してから、ぱったりと奴は姿を消した。
この社会の根幹を揺るがすと言っても過言ではなかったあの事件。
収束した後詳細を知りたくて、直接関わった常守に尋ねたけれど、結末がどうなったのかは分からないのだと曖昧に微笑んだ。
公には出来ぬと緘口令が敷かれている槙島の最期のことも、それから消えたあの男のことも。


前に一度、あいつとキスをしたことがある。
忘れもしない、狡噛が公安を抜け出す少し前。冷暖房完備で過ごしやすい筈の公安局内が、やけに寒かったある日。
所属している部署から一係への連絡ものがあって、届けに行ったのだ。
その時私は結構忙しくて、ほとんど三日間泊まりがけで仕事していて、眠る暇もないような状態だった。あの時はそれを持って行ったらシフト終了、伸び伸びと帰って休めてお役御免という状態だったのを覚えている。
山場も終わり、肩の荷が下りかけているのに眠気がピークなのもあって、私はふらふらとどこか夢に片足を突っ込んだような気分で一係の執務室へと足を運んだ。


「……お?」


自動ドアが開いて中に入ると、一係の面々は席を空けていた。


「珍しいね、一人?」


ただ一人、狡噛だけを残して。
私がやって来たのに気付いて彼がこちらに目を向ける。


「……ああ」


口数少なく、狡噛はそれだけ頷いた。
元々そこまでお喋りなほうではなかったけれど、執行官になってからの彼は、昔以上に静かになった。
……いや、静かというのは語弊があるか。
そうなのは見た目だけで、その内側では何か……言葉にするのが難しいけれど、何か途轍もなく激しい感情か、緻密に張り巡らせた思念のようなものを、宛先の分からない他人に向かって吠えているような、そんな印象を私は持っていた。


「……そっか」


かたかたと端末を弄る狡噛の脇を通り過ぎて、宜野座の席に近付いた。


「ギノと常守はまだ戻らない?」
「さあな。そのうち戻るとは思うが時間は分からん。……届け物か?」
「うん、大したものじゃないんだけどね……」
「その辺に置いとけよ」


頷いて、手に持つそれをどこに置こうか思案する。
いつも几帳面に整えられたギノの机も、シンプルながらも女の子らしい小物が並べられた常守の机も、大量の書類やら何やらでごちゃついていたのだ。
しょうがない、古典的だがメモでも書いて貼って目立つように置いとくかと、私は座席に座る狡噛を振り向いて、付箋か何かないかと尋ねようとした。


ーーえ。


後ろを向くのを制するように、いつの間にかすぐ背後まで近付いて来ていた誰かが、宜野座の机に着いていた私の手の上に、押さえつけるように自らの手を添えた。
手の甲と、それから背中に感じる温い温度、ふわりと香る煙草の匂い。
この香りを纏わせているのは、今局内で一人だけだ。


「……こ、」


ーーうがみ。
名前を呼ぼうとした唇は、少々強引に塞がれた。
お互いに、目を閉じない口付けだった。
ーーなんで。きゅうに。なんのつもり。
あまりに突然のことに、頭も心も全く着いていかない。
疲れているのもあるのか、どうにも考えることが億劫で仕方なかった。
疲労で碌に働かない脳で捉えたことは、案外この男の唇は熱いんだなあということ。
そして、ただの同期としてしか意識していなかったこいつとこんな風に触れ合うのが、思いの外嫌じゃないということだけ。


ーー……ひとがくるよ。


長かったのか短かったのか、よく分からない。
他に口にすべき言葉がきっとあっただろう。しかし、唇を離してお互いに至近距離で見つめ合いながら出てきたのは、掠れた声で呟いたそんな言葉だった。


……ああ。


聞いているのかいないのか、狡噛は私のそんな発言など上の空なように頷いた。
私も狡噛も、目を逸らさなかった。
狡噛の手が、私の腰から上って背に到達する。
それは上着越しでも分かるほどに温かくて、ああ、何だかこのまま流されそうだなあとぼんやり感じた。
それもいいかと考えた。
恋人は今居ない身だし、好きな人同士じゃなきゃそういうことをしちゃいけないなんて初心なことを考える、身持ちの固い生娘なわけでもない。
じっと探るように狡噛の瞳が動いた。拒絶も否定もしない私の意志を確認するように揺れて、再び唇を近付ける。
目を閉じたら、甘い熱に浮かされてそのまま落ちてしまいそうだなあなんて、夢見心地で呑気なことを考えた。
狡噛の腕のデバイスが着信を告げたのは、私達の唇同士が二度目に触れ合う直前だった。
目覚ましアナウンスによって眠りから覚める時のような感覚。
ずっと意識も思考も現実にあった筈なのに、ぱちんと周りの風景が弾けてうつつに引き戻されたような、そんな気がした。


「……ギノだ」


触れていた身体を離し、狡噛がそう呟く。
宜野座らしいけど間ァ悪いなあ、と瞬間的に考えた自分にはっとする。
まるで、私が狡噛とのその先を望んでいるような感情だ。


「……行ってくる」


端末で宜野座と二言三言会話した後、彼はそう言い置いて戸口に向かう。


「……うん」


瞬きすらも惜しむように目線を合わせていたというのに、ちらりとも私を振り返ることなく狡噛は執務室を後にした。
一人取り残された私は、さっきまで奴のと触れていた唇に指を当ててみる。
じっくりと味見されるように絡んだ舌に残った苦味は、ちょっと癖になるような悪い味だった。





嗅覚は他の感覚と違って直接脳に働きかけるという。
匂いを嗅ぐことが、記憶に直に結び付くというのだ。
あの一件以来間も無く狡噛は姿を消し、槙島事件も終焉を迎えた。
沢山の人々と色んな思いを置き去りにして、狡噛だけが真実を握ってこの舞台を去った。
事実上の追放を受けた彼には、私はもうきっと問い掛けることも、まして会うことなど到底叶わないのだろう。


ーーねえ。あの時なんでキスしたの。


結局聞きそびれた口付けの意味も知ることができないまま、私は未だあの男に囚われている。
彼の香りを思い出したくて買い始めたSPINELは、もう何箱になっただろう。
見様見真似で口に含んでみたこともある。
でも全然駄目だった。
すぐさま唇から離して、激しく咳き込んだ。
苦い。不味い。こんなの口に入れるなんてあり得ない。
じわりと滲んだ涙は、きっとその酷い味のせいだ。
狡噛の味じゃない。
狡噛の香りじゃない。
同じメーカーで、タール量も全く同じものに火をつけている筈なのに、どう頑張っても奴の纏うそれ本物にはならなかった。
それでもどこかで彼と繋がっていたくて、毎夜のように自室でただただそれに火をつけて、吸いもせずに眺めることを続けている。
たった一回唇が触れただけでこんなにも、どうしようもなく焦がれる程にやみつきにさせておいて、あいつは私をどうしたかったんだろう。
教えてよ。
いつ、公安を出て行くことを決意したんだろう。
あの頃の物憂げな瞳は、自分がこの社会からいなくなることを想定していたのだろうか。
たった一人で、全部抱えて。


「……ばかやろう」


じりじりと焦げていく煙草を横目に、私はソファの上で膝を抱えた。
額を膝頭に付けると、視界が闇に包まれて暗くなる。
落ちてくる涙を封じ込めるように瞳を閉じた。
締め切った室内に充満する煙が形を成して、まるで私を慰めるようにあの懐かしい大きな掌で背を撫でてくれるような、そんな気がした。



貴方と私の約三秒間の交信

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