第4回 | ナノ
この空間は、紙が指によって捲られる音以外許されないような荘厳さを孕んでいた。繊細で透明感のある静謐な空間だった。
二人の人間がお互いに言葉を発せず読書にいそしんでいる。ひとりは青年、もうひとりは少女だ。少女の方がぱたんと本を閉じて、躊躇いもなく口を開いた。

「幸福が何たるか議論するにあたって、槙島さんは先ず何から始めますか」

静かな空間に投げ出された言葉は、ゆっくりと放物線を描いて彼方へ飛んでいった。青年はそれを優しく受け止め、少女へと身体を向けた。唐突な話題に関して、どうやらお咎めはないらしい。
槙島と呼ばれた青年の白い指が本に栞を挟んだ。彼の鋭い視線がやってくる。少女はそれを真正面から受け止めて、薄く笑った。

「幸福の定義から? それとも不幸の定義?……いえ、他人との比較から導くべきなのでしょうか」
「また難しいことを考えるね」
「いつもそうです。私、自分の能力を超えた部分まで追求したがる癖があって」
「それも君の良い所だ」
「……褒めたって、私にあげられるものなんてありませんよ」

先程まで真摯な表情をしていた彼女も、今は年相応にころころ表情を変えてゆく。青年はそんな少女を慈しむように見つめていた。

「読書の邪魔をして申し訳ないです。コーヒーか紅茶でも淹れてきます」
「話はもういいのかな」
「槙島さんが仮に完璧に思えるような言葉をくれたとしても、それで私が何か変わるわけではありませんので」
「そうか。じゃあ紅茶をお願いしようかな」
「承りました」

幸福の議論が野暮であることを、少女はよく知っていた。そして答えはもう出ている。あくまで彼女がそう信じている、彼女の中では絶対で揺らぐことのない事だ。そしてそれを崩すことが不可能に近いことを、青年はよく理解していた。
少女にとって、議論出来ないものとは尊いものであった。語り得ないことに対し沈黙を守ることなく、言葉を言葉で弄ぶように舌で転がして楽しんでいる。自分の言動如きでは欠片も穢れないであろう尊さを、彼女は信じて止まなかった。

「どうぞ」
「ありがとう」

少女がお茶を持って戻ってきた。彼の隣にしゃがんで、そっと彼を見上げる。

「……槙島さん」
「今度は何かな」
「幸せってね、簡単なんですよ。でも証明したらお終いで、きっと意味はなくなってしまう」

それは何処か自分に言い聞かせているようでもあった。至極少女は楽しそうに、にこにこと笑顔で青年に語りかける。

「例えば、槙島さんが私に口付けをひとつして下さったら、私は幸福に潰されて死んでしまいます」
「……それはどうかな」
「どうせして貰えないのは明白ですけど、死ぬのは怖くありません」
「した後で、君に死ぬなと懇願したとしたら?」

少女の笑顔に、変化は訪れなかった。

「まさか! 死にますよ」
「そうか。君らしくていい」
「だから褒めたって何も」

照れたような彼女の言葉を珍しく遮って、青年は少し強張った笑顔を浮かべた。少女も青年の雰囲気の変化を推し量ったのか口を閉じ、静かに次に紡がれる言葉を待った。

「……君からは十分すぎるくらい貰ったよ」
「何を?」
「決まってるだろう。幸せを、さ」

少女は青年の幸福の定義を問うてみたいと思ったけれど、すぐに止めた。その表情があまりにも美しく、彼女はただ小さく頷いて、彼の白い手に自分の手のひらを重ね合わせた。
紛れも無い幸福がそこにあった。



幸福は足りていますか

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