第3回 | ナノ
かちゃん、という音にふりかえる。そのままギイと扉を開ける音が届く。今は日の出から少し過ぎた、朝というには未々早い。インターホンは一度も鳴っていない。私は、父さんの言いつけに従って、このご時世には珍しい鍵というものをかけている。ただ、それと同時にピッキングというものもあって、それを使えば錠は開けられる。私の鍵は兄にしか渡していない。だが今家に入り込んだのが兄かというと私にはそうとは思えない。あの人は、良くも悪くも仕事に真面目なのだ。市民暴徒化という混乱の後始末に当たっているはずの彼が、ここに来る暇など一瞬たりとも無い。彼は非情ではないけれど、分別のつくおとなだ。
そうこう考えているうちに足音は近付いてくる。リビングと廊下を隔てている扉が開かれた。同時に塩水を詰めた霧吹きを構える。
「…お前、何やってるんだ。」
「……にい、さん?」
余りにびっくりして霧吹きをごとんと落とす。衝撃でノズルから少量の塩水が溢れてカーペットを濡らす。ああこの間変えたばかりなのに。
「…それで撃退したのか?」
廊下とリビングに倒れている数人の男を見下ろして兄が聞く。黙って頷くと、いきなり右手に持っていた黒いものを向けられた。
『犯罪係数アンダー100。執行対象ではありません。トリガーをロックします』
「……」
兄の目が光ったと思ったら、黙ったまま黒いものを下ろす。じっと見られたまま、数秒が流れる。気まずさを覚えて目をそろりと反らすと、兄が大きく息をついた。
「…無事なようで、良かった。」
安堵したように吐かれた言葉に、自分の中からも安堵と、少しばかりの罪悪感が溢れた。兄のことをちょっと誤解していたようだ。家族よりも仕事に目を向ける人だと。
「兄さんも無事で、良かった。」
ぎこちなく笑うと向こうもぎこちない笑みを返す。こうやって面と向かって会うのは8年ぶり、彼が監視官住居に移って以来だった。ずるずると長く伸びた前髪と、つるの太い眼鏡はまるで仮面のようだった。昔父に見せてもらった、中世の舞踏会で貴族達の様子にちょうどそれは似ていた。
「兄さん。」
「なんだ。」
「おかえりなさい。」
「…ただいま。」

ゆっくりは出来ないからと、床に転がった男達に手錠をかけて手首のデバイスで呼んだドローンたちにそれらを運ばせ、兄は直ぐに出ていってしまった。ちょっぴりさみしい感じもしたけれど、そこは私もいい歳のおとな。駄々をこねたりはしない。
「ああ、父さんとダイムのこと聞くの忘れてた。」
血まみれの床を清めて、散らばったたくさんのものを片付けると色々聞き忘れたことを思い出した。ダイムはともかく、父さんの様子をメールで聞いたとしても兄はきっと当たり障りのないことを返すか黙殺するだろう。ミスったなあと思いながら、ようやっと綺麗になったリビングで珈琲を一口飲んだ。すると朝からずっと沈黙していた携帯がぴるると鳴いた。
「!」
めちゃくちゃ遠くから撮ったようなぼけた写真。差出人は兄。
写っているのは広い背中の、褪せた色のロングコート。市民を誘導してるのか、右腕をあげて何やら指示を出しているようだ。ズームも手振れ修正もされていない、誰にも見られないようにさっさと撮ったのであろうことがよく判る。そんな風に、意識しているんだ。
なんだか嬉しいような泣きたいようなよく解らない気持ちになってソファーの上に寝転がった。

あの人達は、まだ、おやこだった。

その事実にどうしようもなく切なくなった。ぴんぼけの写真は、彼等の仲が氷解してはいないことを表していたけれど、妹のためと割り切れずに急いで撮った兄の気持ちは、きっとそういうことだ。そして、父は執行官になった時私に兄のことを支えろと言った。父に兄を嫌う理由などない。
執行官は、監視官となら外出出来ると聞いた。今度兄にねだってそうしてもらおう。もちろんダイムも一緒に。きっととても嫌な顔をするけれど。
でも、一緒にいるだけで。家族と同じところにいるだけで。それだけで、いいんだ。

街が復旧したら、新しい珈琲豆を探そうと思った。



茨の君を抱きしめる

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