第3回 | ナノ
 二人でいる限り、孤独は必要ないのだった。

 わたしたちはたしかに、触れあうことで生まれる、あたたかな愛を知ったのだから。



* はじまりなんて望まない *




 殆どジュースのようなお酒を飲んだ。一人で。

 伸元は今日も帰りが遅いようで、先程、「先に寝ていてくれ」とだけメッセージが届いたのを確認した。


 最近の伸元は忙しすぎて、家へ帰ってこないことが多い。同棲しているというのに、まるでこれじゃあ一人暮らしと変わらない。

 互いに束縛を嫌うから自分の時間は有り難いのだけど、ここまですれちがいが重なるとそれなりに寂しさも募る。

 ホロが投影されていない、地味だけれどやわらかな毛布に包まれると、甘いお酒の匂いと相まって寂しい気持ちがやわらぐような気がした。
 隣に飛び込んできたダイム──伸元の愛犬──を抱き寄せれば、彼はなぐさめるようにわたしの頬をひと舐めした。
 ダイムの温もりに顔を埋めて眠りについた。





 明け方、伸元が帰ってきた気配を感じて目が覚めた。
 薄く開いているカーテンから見えた外は寒そうで、空は白く曇っていた。


 一足先にダイムが向かったようで、からからと音をたててフローリングの上を歩くのが微かに聞こえた。


「伸元…?」

 リビングへ出ると、いとおしそうな目でダイムを撫でる伸元がいた。
 約二日ぶりの伸元の姿だ。


「すまない。起こしたか」

「いいの。お帰りなさい」


 伸元のほうが何倍も疲れているにもかかわらず、わたしを気遣う。この人の、そういう小さな優しさが好きだ。


「ただいま」

「……伸元」

「ん?」


 シンクに立った伸元の背中にしがみつくように抱きつく。

 彼は二日前の朝出勤して行ったときと同じ清潔さを身に纏っていて、不思議な感覚がした。


 腰に巻き付けたわたしの腕に、伸元の指先がそっと触れた。


「手、冷たいね……」

「なまえは、あたたかいな……」


 ついさっきまで、寝てたから。

 仮眠室のベッドで、よく寝れてるの?

 なにか食べた?ご飯、早いけど作ろうか。


 そんな言葉たちが脳内で次々とあふれては、発することなく消えて行く。

 多分、これが正しい。今はこれでよかった。

 今、伸元に抱き付いているこの今が、いとおしくてたまらないのだ。



「なまえ……」



 吐息混じりで名前を呼ばれた。

 数日離れていただけなのに、伸元に名前を呼ばれると、こんなにも切なくて、いとおしくて、胸がかきみだされる。


 そうなると、ただ触れてほしくなる。


 伸元が振り向いて、わたしの身体を引き寄せた。

 わたしはひんやりとしたシンクに手をついて、彼にねだった。
 そのまま少しよどんだ彼の瞳を、深く見つめる──疲れているんだと、この瞳を見ただけで誰もが気が付くくらいに、深く沈んでいる目。

 腕を上げて、彼の後頭部をやさしく撫でると、気持ちよさそうに瞼を下ろした。


 しばらくしたところで、ただ黙って抱き合った。

 見計らったように、ダイムはわたしたちの足元に近寄ってきた。

 静寂の朝に、二つの鼓動と一匹の呼吸音を聴いている。

 伸元が、わたしの耳元で囁いた。


「知っているかもしれないが、最近、物騒な事件が増えている……またしばらく、帰れそうにない」


 その言葉に、うなずく。
 聞き分けの良い自分に昨日の酒の味が蘇ってきて、一瞬気分が悪くなった。


「待てる。待ってる。ずっとここで」


「すまない」


「謝罪の言葉というか、それに似たような、マイナスな言葉が多いよ。伸元ってば」

「……なまえやダイムには、寂しい思いをさせてしまって……」


「ほら、また」


 わたしが遮れば、伸元は微笑んだ。
 邪魔な眼鏡を手に取ると、そのまま指をからめとられる。


「マイナスか。じゃあ、どうしたらプラスになる?」

「そうだな……」


 考えるふりをして、ゆっくり瞼を下ろせば、彼の笑い声が聞こえた。


 体温の低いそれを、一生懸命受け入れた。


「ありがとう、なまえ……」

 吐息のあいだで伸元がそう言うので、そんなキャラじゃないよと、そう返した。





 このとき確実に何かがはじまっていて、わたしたちを取り巻くこの世界が少しずつ傾いていたことに、まだ気が付いていなかった。



 それでもただ、あなたとのはじまりだけがあればいい。
 わたしにとっては、あなたとの今があれば、それでよかった。



はじまりなんて望まない

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