彼女は歌うことが好きだった。誰よりも歌を愛していたし、暇さえあればどこにいても歌っていた。
お世話にも上手いとは言えなかったが、それでも彼女の歌は綺麗だった。
聞いているだけで心が安らぎ、日だまりに包まれているような穏やかな気持ちになった。もっと聞いていたい、もっと彼女の歌に触れていたい。そんな気持ちになった。
おそらく彼女の歌声には安心感や幸福感といったものが僅かながらに含まれていたのだろう。聞いているだけでそんな心地になるのだ、彼女の歌声にはきっと特別な何かが宿っているのだろう、そう思った。
彼女を手元に置くようになったのは気まぐれだった。彼女は偶然見つけて偶然拾って気に入ったから隠れ家のひとつに住まわせることにした。
他人と暮らすことに抵抗がないわけではなかったけれど、彼女との生活は意外にも充実していた。僕が楽しいと思えるくらいには。
彼女とは半年近く一緒に暮らしていた。
僕は時折家を空けることもあったけど、空けても二三日程度だ。彼女と過ごした時間は他の誰よりも長かったはずだ。
彼女が僕に慣れるまでの日々は案外おもしろかった。
彼女を例えるなら猫だろう。なついたかと思うと離れていって、けれどもまたすぐに近づいてくる。餌をねだってくるかと思えば、興味を無くしてひとりで歌って。でも、ひとりは寂しいから人肌を求めて擦り寄ってくる。
今思い返しても思うことは同じだ。やはり彼女は猫だった。それがいちばん彼女に似合う形容だった。いや、彼女らしいとさえ思えるのだから気のせいではないだろう。
この隠れ家は僕のお気に入りのひとつで、他よりも長く愛用している。どこにでもある内装で、外装も凝っているわけではないし、間取りも広くも狭くもない。少しばかり日当たりがよくて書斎が広い。それが単に気に入っているだけだった。
まあ、お気に入りというだけあって、他人を入れたことはほとんどない。グソンを招いたことは何度かあったが、知り合いと逢うときは他所を使ったし、自ら赴くほうが多かった。
けれども、最近まで彼女がこの家にいたせいか、ひとりでいると広くかんじてしまう。いや、こんなにも広かったのかと驚いているくらいだ。
こうしてゆっくり紅茶を飲むのも久しぶりだ。カップを持って芳香なそれを嗅ぎ、そっと口をつける。この茶葉は本当に香りがいいと微笑みながらカップをソーサーに戻した。
そういえばと思い出す。彼女は紅茶よりコーヒーを好んでいた。紅茶は上品すぎてわたしには合わない。でも、聖護にはぴったりね。すごく似合ってる、そう言って笑っていた。
あの頃が懐かしい。懐かしくてたまらない。
僕が本を手に、紅茶を飲んでいるときは彼女は僕の隣に座って歌っていた。鼻歌のときもあったし、口ずさみながら歌うときもあった。僕は彼女の歌が聞けるならどんな歌でもよかった。彼女が隣にいてくれる、その事実をかんじていたかったのだ。
けれど、彼女はいない。遠くへ旅立ってしまった。この世界からいなくなってしまったのだ。
彼女は不治の病に侵されていた。現代の医療では治らない病気に蝕まれていた。医者からは半年持つか分からないと診断されていた。
彼女がその宣告を聞いた日が、僕と彼女が出会った日で僕が彼女を拾った日だ。
半年は長いようで短かった。一ヶ月を切る頃には、彼女は起き上がれなくなり、食も細くなった。それでも、彼女は病院に行こうとしなかったし、僕も病院に行かせるつもりはなかった。
僕は手ずから彼女を介護した。らしくないのは分かっていたけれど、それだけ彼女が大切だった。面倒を見たいと思うほどに彼女を愛していた。
だが、一ヶ月はあっという間で。医者の診断どおりに彼女は半年後にこの世を去った。彼女は安らかに静かに、苦しむことなく息を引き取った。僕に看取られながら最期の瞬間にありがとうと零して笑っていた。その微笑は今まででいちばん綺麗な笑みだった。
今日は彼女の月命日だ。
冷めきった紅茶をすべて飲み干して、彼女がいつも口ずさんでいた歌を小さく小さく口にする。
所々でずれる音程に苦笑しながら最後まで歌うと、そっと目を閉じた。暗い闇の中に彼女の姿が浮かぶ。その彼女に向かって手を伸ばした。
「……なまえ……」
ぽつりと零した瞬間、彼女に名前を呼ばれた気がして勢いよく目を開ける。辺りを見回してみるけれど、そこには何もなかった。ただただ虚しいばかりの空間だけが広がっていた。
「…………」
前髪を掻き上げて、ぐしゃりと握る。すぐに力を解くと、長い前髪がぱらりと落ちてきた。
なんでもないように苦笑し、窓の外を見る。眩しいくらいの青空が視界に映った。憎らしいほどに澄んだ青空だ。
僕は目を細めた。目の奥が熱くなったような気がしたけれど気づかないふりをした。
彼女が愛した歌を