夜の街。ネオンサインに浮かび上がって消える、宣伝文句。すぐ真下で聞こえたサイレンがけたたましい音を立てて遠ざかっていく。事件に駆けつける白黒のちいさな車と、どうあっても壊れてくれそうにない護送車を見送り、ため息を吐いた。
しあわせが逃げるらしい。そう言ってキスをくれる狡噛さんはもういない。
「風邪を引くぞ」
肩に、コートがかけられた。アクアノートの爽やかな香り。夏のような香水を、この人はいつもつけている。
「夜更かしですか」
「あなたこそ」
「わたしはいいんです」
「執行官だってこのフロアは自由に使える」
凍えそうなテラスのなかに、東金さんはなんの迷いもなく踏み込んでくる。白いワイシャツ一枚に、きゅっと結ばれた黒のネクタイ。ひらひらと風にゆれている、それをつかんでみた。東金さん。
わたしの声は頼りない、どこへも行くあてがなくて、手すりにかけられた東金さんの手の甲へ落ちていく。
寒い、なぁ。
息を吐いたわけでもないのに、鼻孔や、唇のすき間から、勝手に白いもやが出た。ネクタイを引っ張られていた東金さんは、しばらくされるがままになってくれたけれど、つめたい、紫色の口に、ふれるだけのキスをした。離れていく唇と同時に、わたしの手は胸元から彼の首筋へと伸びて。背伸びをしてやっと届くくらいの高さ。いつも少し屈んでくれる。
「ね、今夜、行ってもいいですか」
「構わないが……朝、早いんじゃないのか」
「起こしてください」
「そうくるとおもった」
「東金さん、ぎゅって、して」
前職は、セラピストだったそう。潜在犯や更生施設に運ばれてくる人間なんて、みんな頭がおかしいんだから、そんなのを相手にしてたからこの人もダメになってしまったんだろう。そうおもってたら、彼には簡単に見透かされていた。
星も月もない、ただのわびしい夜を抱えて、東金さんは強く、わたしを抱き締める。くせのある少し長めの髪と、いつもきちんと着こなされたスーツと、丁寧な口調。間違っても、わたしをあんたとかバカだなんて言ったりしない。暴言も吐かないし、お酒も控えめだし、セックスもやさしい。
「みょうじさん、部屋に戻ろう」
でも、名字で呼ばないで、って、言ったじゃないですか。なまえ、って呼んで。さんはいらない。わたしは東金さんって呼ぶけれど、あなたは下の名前を、呼び捨てしてくれなきゃ、やだ。
「もすこし、います」
「身体が冷えてる」
「あとで行きますから」
「それなら俺も残ろう」
強いて言うなら、この夏のような香水だけは、やめてもらいたい。もっと、寒いにおいのするコロンなんて、どうです、東金さん。いまは冬だし。雪も積もっているし。わたしの八月は、あの人といっしょに、消えてしまったのだから。
「……どうした?」
ちいさくため息をすると、東金さんは心配そうに頭に手を置いた。手足の先がいよいよかじかんできて、感覚が遠のく。震える唇で、やっと名前を紡ぎ出す。
「寒いんじゃないのか? やっぱり部屋に」
「い、や……」
「みょうじさん。ほんとに風邪を引くぞ」
「なまえです」
東金さん、わたし、みょうじじゃないよ。
どれだけ我が儘を言っても、大抵、うなづいてくれるのに、これだけは聞いてもらえない。頑なに名字を連呼する。
冷ややかな夜が纏う青いにおい。重なるあの人。おなじ遺伝子という夢を見て。
「東金さんは、あったかいなぁ」
しんしんと夜に、東京は降る。フロアを通りかかった人影が見えた。二係の人かな。こんな寒いなかで、という目をしていたような気がする。あんたなんかにはわからないのよ。このさみしさなんて。わかってもらう必要もないし、同情される謂れもない。わたしは絶対に、東金さんの名前なんて呼ばない。
青の遺伝子