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※監視官狡噛設定

 シビュラシステムが将来の伴侶を決める。それが息をするように当たり前になったこの時代、当然のように横行するそれは、決して強制や強要という形は取られていなかった。自ら選んだ相手と添い遂げたとしても、それはそれで受け入れられていたのだ。
 しかし、各自の適正や嗜好、職業などの個人情報からシビュラが科学的に分析し、億という人間の中から選び出した伴侶は将来を共に過ごしてもいいと思えるほどに相性がぴったりの者ばかりが選出された。そのためシビュラに頼った方が最適かつ確実だと思うようになったのは暗黙の了解に近かった。
 そして、それはなまえも例外ではない。両親の強い要望に後押しされたというのが確たる理由ではあるが、シビュラがなくてはならない物になった昨今では、それが普通のことなのだとなまえは思っていた。だから、シビュラが決めた相手なら問題はないと思っていたし、シビュラは正しいからと疑って掛かることはなかった。
 シビュラが提示した相手は医療システム開発会社に勤めるサラリーマンだった。
 彼は中流階級の家庭で育った普通の青年だ。
 黒い髪と黒い瞳、右目の黒子が印象的で、高くもなく低くもない身長の所謂中肉中背の男は、可もなく不可もない穏やかな人物だった。将来的に安定した職種に就いており、性格的にもなんら問題のない彼は、未来の夫としては申し分ない逸材だと言えた。
 最初に会ったのは両親の薦めだった。早い方がいいからとお見合いのようなセッティングをされて、不覚にも緊張していたなまえは、彼と上手く喋ることができなかった。だが、それは彼も同じだったようだ。言葉を交わしても二言、三言程度で、話が弾むといったものは一切なかった。あるとしたらそれはなんとも言えない気まずさで、二人の間に重苦しい空気しか漂っていなくて、でも、彼と会う度に、彼と話す度に“この人となら”と思うようになっていった。公安局で働く身としては、彼のような相手の方がストレスを感じることも、溜まることもないのだろう。だからシビュラは彼を選んだのだ。

▼△▼△

 公安局総合案内所で受付嬢をしているなまえの朝は早い。
 早起きは苦ではないため、上からの時間指定があったとしても問題なく対応できたが、早起きは別としても、受付嬢としての高いスキルや高い能力を要求された。
 細かい心配りや来客を迎える笑顔、即座に対応できる判断力や順応力。そして、それら全てを含めたビジネスマナー。もちろん言葉遣いや立ち居振舞いもその中に含まれている。
 訓練施設で身につけたものばかりだが、それらを維持するためには日々の努力が必要だった。だから要求された以上のことを示さなければいけない。
 受付は簡単そうに見える職業だが、求められるものは大きかった。
 なまえが公安局に勤め始めたのは二年前からだった。同期の何人かも自分と同じように公安局に入社したが、配属された課はばらばらだったため、さしたる交流はなかった。
 けれども一人だけ例外がいた。公安局刑事課一係で監視官をしている狡噛慎也、彼とは訓練施設からの知り合いで、今では深い関係にある男だった。
 深い関係とは、その言葉通り、様々な意味合いが含まれているが、この場合は“体の関係を持っている”というのが適切な解釈だろう。
 狡噛と関係を持ち始めたのは、丁度半年前だったはずだ。その場の雰囲気に流されて、体を繋げてしまった。互いが乗り気だったため、後悔はなかった。雰囲気に流されたというのも建前で、本当は互いが互いに惹かれていた。だから、それを理由に雪崩れ込んでしまったのだ。
 体の関係はそれからも続いた。互いの都合が合えば、その辺のホテルに一泊してというのはザラだったし、互いの家で事に及ぶことも少なくなかった。
 恋人と呼ぶにはあまりにもお粗末な関係で、セフレと呼んでもしっくりこない。どんな呼び名がいいだろうと考えた末に出た答えは“曖昧”だった。この言葉が一番しっくりくるなと個人的にそう思った。
 だが、なまえの薬指には指輪が光っている。
 つい先日、婚約したのだ。
 そう遠くない日になまえは、シビュラが決めた結婚相手と祝言を挙げることになる。ならばもう、狡噛とは縁を切るしかない。婚約者がいるのに、他の男を相手にできるほど自分は器用ではないのだ。
 きっとこんな関係を続けていれば、どこかでボロが出る。ボロが出れば、手の中に収めた全てのものが溢れ落ちてなくなってしまう。そうなってしまったあとに後悔しても遅いのだ。だから今日、告げようと思う。丁度夜に会う約束をしていたのだ。いつもと同じように体を重ねるだけのそんな約束。
 なまえは心の中で笑った。職務中にこんなことを考えるなんてミスを起こしかねない行為だ。
 なまえは自分を叱咤しながら、仕事に集中するために頭を巡る思考を振り払った。

▼△▼△

 今夜、狡噛と会う約束をしていた場所は、都内近郊から離れたホテルだった。安くもなく高くもない普通ランクのホテル。その一室でなまえは狡噛を待っていた。
 ホテルの部屋にはホロが使用されていた。種類は色々あるようで、好みに合わせて調節できるらしい。
 だが、そんなものに興味がないなまえは初期設定のまま、その室内に備え付けてあるソファに座っている。寛いでいるというわけではなかったが、部屋の中をうろうろしているよりかは幾分かましだと思えたからだ。
 なまえはぼんやりとしていた。考えているのは婚約者と狡噛のことだ。今日は一日中、この二人のことに思考を奪われていたため、仕事に身が入らなかった。
 今も正しくそれと同じだ。婚約者と狡噛のことを考えながら、どうするべきかと思考を巡らせている。答えは自分の中にちゃんとあるにはあったが、迷っている自分も確かにいるのだ。
 なまえは無機質な天井を見るともなしに見つめる。空虚なそこには何も存在していない。だが、何もないからこそ、自分の苦悩する何かがそこにあるような気がした。

「……狡噛くん……遅いなあ…」

 そう呟いて時間を確認すると、ここに来てから三十分が経過していた。
 急な事件でも入ったのだろうかと思ったけれど、そんなことがあればいくら狡噛といえども連絡のひとつくらい寄越すだろう。だとしたら急な残業か、書類整理でも押し付けられたのか。
 憶測はいくらでも立てられるが、真実は分からないままだ。
 なまえは浅く息をついた。待つことは慣れていたつもりだった。職業柄、待つことを耐えなければ何もできない。けれども、ここは職場ではない。受付嬢でもない。今はプライベートで、なまえはどこにでもいる普通の女なのだ。
 なまえはもう一度息をついた。やはりこうも一人で思い悩んでいると不安になってくる。意志が揺らいでいく。待てば待つほど負の感情に押し潰されるような気がして酷く怖くなった。
 そんなふうに何度も息を零しながら重苦しい思考に悩んでいると、不意にノックもなしにロックが外れた。気がつくとドアの開く音が耳に届き、見慣れた人物が姿を現した。

「……待たせたな」

 言って、狡噛は首元のネクタイを緩めた。その仕草にドキリとしてしまう。婚約者にはない色気だ。つい目で追ってしまい、せっかく心に決めたことが、ぼろぼろと崩壊を見せ始めた。いけないと思いつつも、危ういその存在を欲してしまう。婚約者に対しての裏切りだと思うのに、強く固めたはずの意志がゆらゆらと揺らいでいる。

「……お前、どうしたんだ」
「え、」
「いつもならシャワー浴び終えて寛いでるだろ」
「ぁ……うん」

 別れを告げにきただけだとは言えず、なまえは押し黙ってしまう。シャワーを浴びなかったのもそのせいだけれど、狡噛がすんなりと納得できるような言い訳は思いつかない。こんなことならシャワーを浴びておけばよかったかもと思ったが、それはそれで何か違うような気がした。
 狡噛はなまえの纏う雰囲気に何か察したらしく、それ以上何も訊いてはこなかった。ただ、じっとなまえを見つめて、何を思ったのか背広を脱ぎながらなまえに声を掛けた。

「なら一緒に入るか?」
「え……」
「たまにはいいだろ」

 なまえの気を紛らわすために発した言葉だったのだが、狡噛の予想は外れた。

「そう、だね。そうしようかな……」
「…………」

 狡噛は驚きを露わにするが、それはほんの一瞬だけで、すぐに剥き出しの感情を引っ込めた。狡噛は「先に行ってるからな」とだけ残してバスルームに向かう。なまえはその後ろ姿を見送ると、そっと手元に目を落とした。
 薬指の指輪がきらりと光る。なまえは指輪をじっと見つめながら、ごめんなさいと小さく呟くと、それを薬指から外してバッグの中に押し込んだ。

「…………」

 罪悪感しか残らなかった。婚約者に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 けれども、これでいいと思った。もうしばらくは狡噛と一緒にいたいと思った。
 なまえは上着をするりと脱ぐと、ソファから立ち上がった。狡噛を追いかけるようにバスルームに向かう。その足はどこか軽やかだった。
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