1 | ナノ
向こう岸に近づけば、真実が見えるのか。





弾かれた者が棲む、光の届かない世界。
昼夜の区別がつかない施設内は人が行き交うための最低限の明かりがあるだけで、生活臭は微塵もない。
暗い通路は閉塞的なのに、先が見えないせいでどこまでも果てしなく感じられた。
ファンの音だけが無機質に響き、澱んだ空気をかき回している。
剥き出しの鉄線や塗料が落ちかかった壁を目にするのも慣れた。
任務を終えたばかりでスーツを着たままの俺は、足早に通路の突き当たりの部屋を目指す。
腕時計を見ると、日付が変わったばかりの時間が表示されていた。
アイツの非番が終わるまで、あと数時間。
急がなくても問題ないとわかっていたが、それでも歩く速さは変わらなかった。



彼女に会う。
この先で待ち構えるものの重みに耐えられるのかと、俺自身に問いかける。

答えは、出ない。





やがて部屋の前まで辿り着いた俺は、浅く一息ついてからドアをノックした。
返事はないが、確かにアイツの気配がする。
「入るぞ。」
断るのと同時に部屋へと足を踏み入れれば、そこは相変わらず仄暗かった。
他の執行官と同じ広さの部屋が与えられているはずなのに、やたら狭く感じられてしまう空間。
原因は考えるまでもなく、おびただしい数の書籍と俺の身長よりも高い本棚だ。
殆どの物事が電子化されているのに、今時紙の書籍を所持している人物なんてそうそういないだろう。
どの書籍も古びていたり、色褪せていたり、決して状態がいいとは言えない。
だが、この部屋の住人はそういうものを好んだ。
持ち主の痕跡が残るもの、手に取って触れられるものが好きなのだと、遠くを見ながら呟く彼女の姿は今でも鮮明に思い出せる。
あのときのアイツは、一体何を考えていたのだろうか。

「なまえ」

しんと静まり返った部屋の中、気配がするほうへと足を運べば、ぼんやりとした明かりが視界を滲ませる。
彼女は私生活において、わかりやすいものを好まない。
それ故に、非番の日は昔ながらのランプをホロで再現し、自室で過ごしているという。
時間が止まったような部屋には、今は滅多に感じられない書物独特の湿気た紙の匂いが充満していた。
奥の本棚に突き当たったところで視線を脇に逸らせば、予想通りの姿が目に入る。
本革の重厚な作りの椅子は、ホロが成しているものだとは思えないほど味のある色をしていた。
パンツスーツ姿の彼女は、そこに深く腰掛けて書籍を眺めている。
俺と目を合わせるでもなく、唇が微かに動かすのは、考え事をしているときによく見られるコイツの癖だ。
どうやら彼女は、今日も生きているらしい。
思わず溜め息をつくと、彼女は瞬きをしつつ座ったまま俺を見上げた。

「…狡噛?」
「返事くらいしろ。」
「今いいところだったから、気づかなくてごめん。」

彼女はそう言いながら、読みかけの書籍にしおりを挟んで机の上に置く。
しおりは金属でできたもので、花の切り絵のような細工が施されていた。
それを彼女に渡した人物は、この世にいない。

「この前頼んだ資料を取りに来た。」
「ちょっと待ってて、」

彼女はスーツの皺も気にせず立ち上がり、机の脇の引き出しを漁り始める。
暗がりで十分な明かりがないせいか、ファイルをいくつか取り出しては表紙を確かめ、その中の一冊を俺に手渡した。

「もし何か足りなければ、また言ってくれる?」
「ああ、悪いな。」

気にしないでと付け加えて小さく笑った彼女は、この場所に相応しくない雰囲気を持ち合わせている。
ふとした瞬間に見せる間の抜けた表情だって、どう見ても潜在犯とは思えない。
それでもコイツは潜在犯であり、れっきとした執行官だ。



佐々山が殉職する前、俺は一度だけ彼女の姿を見たことがある。
当時はセラピスト候補生の公安見学が何度も行われていて、女の出入りも多く、佐々山は毎日生き生きとしていた。
そんな中、候補生の一人だったコイツに佐々山はいつのまにか惚れていたし、彼女も佐々山に好意を寄せているようであった。
俺は監視官として二人を傍観していたが、やがて事態は急変する。
標本事件、佐々山の死、俺の降格。
その直後、彼女は執行官として公安に配属された。



あの日以来、俺はずっと標本事件を追っている。
おそらくコイツも俺と同じことをしているのだろう。
どんな経緯で執行官になったのか知らないが、犯罪係数は周りの連中より低く、思想が殆ど読めない女だ。
部屋で読書をするか、執行官としていくつもの任務を遂行するか。
続くのは、窮屈で不自由かつ代わり映えのない生活。
彼女はそれを難なくこなし続けていた。
この部屋にあるおびただしい数の書籍は全て、心理学や犯罪学に関するものだ。
どうして彼女が執行官になったのか、何故こんな場所にいるのか。
佐々山の寂しげな表情が目に浮かんだが、俺はコイツに何も言えなかった。
影を追い求めているのは、俺も一緒だ。
その先には何もないとわかっていても。



資料を受け取りながら、俺はふと彼女の手に違和感を覚える。
一昨日まではなかった白は、包帯の色だ。

「…これは、」
「かすり傷だよ。」

コイツはいつだって多くを語らないが、傷は大概被害者を庇ってできたものだった。
巻かれた包帯をそっと、けれど逃げられないようにしっかりと掴めば、コイツは俺の手をまじまじと見つめている。

「注意してるつもりだけど、なかなかうまくいかないね。」
「アンタは自分に厳しいからな。」
「そう?」
「そうだ。」
「手厳しいな、狡噛は。」

屈託なく微笑む彼女が自由に世界を歩くことはない。
闇の中に溶け込むように、色相を濁らせて生きていく。
目的が何であれ、それが彼女の選んだ道だ。


佐々山は彼女に触れられず、コイツを掴めるのはこの手だけだと知っていて、俺は。


包帯をゆっくり親指でなぞらえれば、彼女は目を細めてひそやかな息遣いをする。
まだ痛みが残っているのだろう。

「痛むか。」
「…少し。でも、痛まなかったらきっともっと辛い。」

彼女はそう言いながら俯き、声を漏らした。
だから痛くても平気なんだと付け加えたコイツを、俺は決して笑えない。
繋がり方がどんなに機械的でも、俺達は所詮、猟犬かつ生身の人間だ。
互いの生を求めては、足りないものを補い合う。
佐々山がコイツに惹かれたように。
俺が事件を追い続けているように。
コイツも何かを糧として、そのときを待っている。
己の中で、決着をつける瞬間を。



この手を離してしまえば、俺もコイツも自由になれるとわかっているのに、そうできない。
本能が、そうさせない。
なまえは手を伸ばして、俺の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。
愛撫には程遠い仕草なのに、身体の芯がじわりと疼く。
コイツに触れた指先が、包帯の下に隠された体温を求める。
束の間の繋がりと柔らかな目眩を、必然に見せかけて。



片手で抱えていた資料を机の上に置き、コイツの身体を椅子に沈めた瞬間、資料は崩れ世界は光を失った。
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