1 | ナノ
みょうじがベッドに入り込んだと同時にインターホンが鳴った。
パジャマも着ていたし、何より時間がもう深夜だ。みょうじは無視を決め込んで、頭から布団を被った。
来客を知らせるチャイムは止むことなく、振り子のように一定の間隔で鳴り続けた。

諦めたみょうじは上着を羽織ってモニターを見た。
狡噛だった。
その後ろに宜野座がいた。狡噛と比べて普段より小さく見える。狡噛との距離があるのだろう。

嫌な予感がした。

「はい」
「夜中に悪い。俺だ。今話したいことがある。頼む」
「いいよ」
「すまん」

宜野座が感情を見せないまま身を翻したのが見えた。
みょうじは狡噛や宜野座と同期の監視官だ。勘は人並み以上に鋭い。
もうただ一つの可能性しか思い浮かばなかった。

震える手でロックを解除する。
一分もしないうちに玄関のチャイムが鳴った。

みょうじは覚悟を決めてドアを開ける。宜野座の姿はみょうじの予想通り、ない。
中に入るように促しても狡噛は首を振った。

「込み入った話になるんでしょう?」
「そう、だな……」

ドアの閉まる音が廊下と室内を遮断するように響いた。
狡噛が一歩だけ入る。狡噛の背中はドアに触れていた。

「婚約を解消してくれ」
「理由を聞いても?」
「執行官になった」

やはり、としかみょうじは思えなかった。

狡噛が部下の佐々山の足跡を追い続け、比例させるように犯罪係数を上げていったのをみょうじは知っていた。
セラピーを拒否したことは宜野座から受診説得を頼まれた時に聞いた。
事件の全容を知り、事態の深刻さを承知している宜野座が狡噛を説得出来なかった時点で、みょうじは自分に出来ることが少ないと分かっていた。

最初で最後になる覚悟でみょうじは狡噛の通信端末に連絡を取った。唐之杜にも同席させて逆探知出来るようにした。
結果はあっさりと出て、狡噛の居場所が地図上を明滅した。
煩く言う宜野座からの通信だけ、拒否をしていたらしい。
これで狡噛の行動範囲は分かったものの、狡噛本人は掴まえられなかった。

所属の違うみょうじが自分の職務を放り出して、宜野座以上に目立つ行動を起こせるはずはない。

狡噛なら大丈夫だという思いと、二日おきに会う宜野座の憔悴し切った顔から沸き上がる不安が交代でみょうじの胸を襲って来ていた。

想定はしていた。
監視官という役職に就いた時から繰り返し聞かされ続けていた。
だが、みょうじやみょうじの周りには無関係だと思い込んでいた。
それが『監視官の執行官降格』だった。

「婚約は解消しない」
「自分の言ってることが分かってるのか?」

狡噛がダンと乱暴に壁を叩いた。
が、みょうじは怯むことなく真っ直ぐに狡噛を見る。

「今は宜野座が上に掛け合って猶予を作ってくれたから、うろちょろ出来る。明日からは無理だ。デメリットはあってもメリットはない」
「私にはでしょ? なら、狡噛はなんで私にわざわざ婚約解消を言いに来たの?」

みょうじは狡噛の絞り出すような言葉を一刀両断した。
傷口を抉るようなことをしている自覚はあった。
けれども、本心でもあった。

他人から狡噛の執行官降格を聞いていたなら、婚約解消もあっさりしただろう。

みょうじを放っておけない狡噛の優しさが嬉しく、辛かった。

「私が狡噛に愛してるって言うのは今日で最後。でも婚約は解消しない。パートナーであることは死んでもやめない」

みょうじは睨み付けるように狡噛を見た。

どれくらいそうしていただろう。

呆れたような溜め息が狡噛の口からこぼれた。

「後悔するなよ」
「絶対しない」
「なら俺も最後だ。愛してる」
「うん」

笑い合って軽くキスを交わした。みょうじはいつものように狡噛の首に腕を回せなかった。
狡噛は一瞬躊躇ったように間を空けてから強くみょうじを抱き締めた。みょうじの身体の柔らかさを己の腕に刻みつけるかのようだった。

静寂の中、二人を邪魔するものは何もなかった。
みょうじも狡噛の全てを忘れないように、と腕の中にいた。

やがて狡噛はみょうじからゆっくりと名残惜しげに腕をほどいた。

「じゃあな」
「うん」

片手を上げて去る狡噛の背をみょうじは笑って見送った。
頬を一筋の涙が伝った。



三年後。

「お久しぶりですな、みょうじ監視官。先日はあなた方公安が私共のドローン工場の生産効率を落としてくれたおかげで、各方面への対応に苦心したんですよ?」

公安局の廊下を歩いていたみょうじの前に立ち塞がるようにいるのは、知り合いではあってもそれ以上にはなりたくない経済省の職員だった。

ドローン工場の件は噂としてしか聞いていない。
公安の上に抗議をしたものの、体よく追い払われたといったところだろうか。

床をぶち抜く大立ち回りだったと言われているが、どこまで本当のことやら。
そう思っていたのだが、尾びれ背びれが付いたわけでもないらしい。
無茶を好む執行官にみょうじは心当たりがありすぎた。

憤懣やる方ない職員が手ぶらで帰りかけた所、運良く幹部候補で自分より年下で八つ当たりの餌食に最適なみょうじが通り掛かったといった辺りか。
嫌味の一つや二つ言って凹ませてやろうという魂胆が透けて見えてみょうじは小さく溜め息を吐いた。

「担当ではないので詳細は分かりかねますが、お手を煩わせてしまったようですね」
「ええ、大変でしたよ。そもそも公安の役割というものは我々経済省と違い――」

長くなりそうだと腹をくくって、みょうじはひたすら話を右から左へと聞き流す。

宜野座に直接聞かなければならない用件があり、一係を出た時には昼休み終了四十分前。

ここまで来るのに約二分で昼食時間などを計算に入れると、目の前の中年男のガス抜きに付き合ってやれるのは十分ほど。

付き合いたくはないが、そのまま帰らせれば公安と経済省の仲は今以上に拗れるだろう。それだけは今後のために避けたかった。

中年男の小言にうんざりしているみょうじの横を、スマンとジェスチャーしながら通り過ぎて行く先輩を恨む。
公安への不満を垂れ流している職員にバレないように、『食事奢ってくださいね』と返す。
『分かった』とすぐに返事をもらえてラッキーと思いながらも、みょうじは直立不動の姿勢を崩さなかった。

が、唐突に肩を掴まれ、身体が後ろに倒れかかるのを踏ん張って堪える。
誰だ、とみょうじは怒鳴りつけかけてやめた。

「その件は俺が担当した。執行官だ」

みょうじの耳には馴染みの、落ち着いた威圧感のある狡噛の声だった。

器用にみょうじを露骨に庇っているとは分からないよう、狡噛が背後へと軽く突き飛ばした。

「し、執行官だと」
「ああ。潜在犯でもあるな」

受け答えしながら狡噛は両手を背中に回した。
指を立てて動かし、手首の端末を指で弾く。

『とっとと先に行け。ついでに宜野座を呼んでこい』

みょうじは狡噛の合図通り職員に気付かれないように離れてから、端末を起動させる。
もしもの場合に備えて二人のやり取りが聞こえる範囲にはいた。

「なんだと! そんな話は上がって来てないぞ」
「だったら確認してみればいいだろ」
「言われなくてもする!」

職員は足早にみょうじの前を通り過ぎて行った。死角にいたということを差し引いても、全く気付かなかったのはそれだけ気が立っていたからだろう。
宜野座を呼ぶまでもなかった。
鮮やか過ぎる狡噛の手腕にみょうじは呆然となった。

「迷惑かけて悪かった」
「ううん。こっちこそ助けてもらってありがとう」

狡噛の謝罪に気を取り直してみょうじが狡噛を見上げて笑うと、狡噛もみょうじを見てフッと笑った。
いつもと違う笑い方にみょうじが視線で問いかける。
狡噛はみょうじの細いシルバーネックレスを持ち上げた。
狡噛がみょうじの誕生日にくれたものだ。

軽く金属音がして狡噛はネックレスをさらに持ち上げた。

狡噛がプロポーズの時に渡したシルバーリングが通されていた。

「まだ持ってるんだな」
「まだ持ってますよ」

呆れたような言葉とは裏腹な狡噛の弾んだ声に、みょうじは開き直って答えてみせた。

狡噛とみょうじは標本事件が片付かない限り、結婚という形を取らないだろう。
狡噛は執行官の立場から、みょうじは監視官の立場から事件を追っている。
世間一般の甘い関係とは言い難い。

仮に事件が片付いたとしても、狡噛は執行官だ。自由が制限されている。

それでも構わない。
だが、二人には暗黙の了解があった。

愛してるとは絶対言わない。代わりの言葉がある。

「背中は心配するなよ」
「うん」

狡噛はただネックレスを揺らし続けた。ネックレスとリングは二人が共に過ごした年月分の鈍い光を放って輝いていた。
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