1 | ナノ
もう、抜けないわ。
時間の無いときにハネムーンがわりのバカンスで、合わない水と食生活に痩せ細ったところに嵌めたもの。今はこの激務、上手に浮腫んで、取れなくなった。
そういって優しく睫毛を伏せ、シルバーリングを撫ぜる彼女は彼のものではなく、そのせいか、この世のどの女よりも贔屓目なしに美しかった。何度だって男の幻想のなかで誰かの女はむかしの処女にもどる。依りかかってそのまま包まれたいほど馨しく手招くまぼろし。目を迷わせる。

「例えば、あんたのその腕が」

歯車から抜け出したいと足掻くように、犯罪者と言わず同僚と言わず御為ごかしをやってのける狡噛の、弄ぶ言葉の中に時折まばたく、まるでむかしの指切りを守ってもらうふうな女っぽい真摯さがいじらしいと思う。澄んで、ひややかな、塩素を通す必要のない綺麗な水みたいだ、と思う。貴方のネクタイの青かったころ。まだ青かったころ。そんな手練手管は別の誰かがやっていて、貴方はちっとも持っていなかった。

「直してあげる。構わず続けて」

緩々になった首筋に手を延ばして(左手に一輪。白色灯をギラギラと照り返して目障り)最近とても上手くなったやり方を施す。意外と拘る征陸さんはセミウィンザーノット。結び目の大きさと形を大切にしたいので、遊べない。粛々とお気に召すまで。彼はプレーンノット変形、私の好きにしてもいい。この職場では、誰もが抑圧されていない上に自分を奔放にするものだから、お茶汲みよりもよっぽどやり甲斐があった。需要は、分からないけれど。
ごくり、と大きな喉が息を吸い込むのが、今からそれを締める断罪者にでもなった気分にさせるのだ。この行為の何処に背徳の香りを得るのだろう。べつに貴方は何もしてないのにね。

「鈍色になったなら、リングはどうする?」

すぐそば、わざと詰めた距離でささやく。古いジャケットやレコードのペーパーから、かつてよくきこえてきた誰かの残り香。生きていたらしいものと触れ合う疑いようのない記憶、私は皺を伸ばして広げたまま積むけれど貴方は手当り次第丸めて小さくポイする。公安に入りたての頃はあんなにしゃんと背筋を伸ばして、今より高く見えたはずだけれど、背中を軽く曲げた獣のしなやかさで私に覆い被さらんとする影の方がよっぽど大きい。

「意地悪な話、しかもいやらしい」

鼻で笑うくらいしようもないQ。でもこちらが緩んだ隙に、何かしら拾って行く抜け目なさ。

「大切な人と自分に斬り付けてまで痛みを覚えておきたいのなら、いつまで経っても約束は果たせないと思うけれど」
「あんたには分からないさ」
「あらそう」

佐々山さんの事は今はもう分かった?女のお尻の良さから、牌のツキまで。分かったふうな格好をして。三年間なんてね、必須教育の三分の一程度。そんなで人ひとり分の人生を追想しようなんて終わる訳がない。貴方は逃れられない。というか赦しを請うのをやめて罰の身代わりを探して、私だってねえ、幇助くらい出来るものならしたかったの。この、重たくって頑固者。

「その時はね、わたしの腕ごとリングになるだけよ」

(きっとこの腕ごと愛してくれる。合金に口付けて、金属の味がすると言って微笑って眉尻をさげるに違いない。天然ゴムも金属もアレルギーがあるのに。人間ってねそんなもの。だれかに一緒にいてもらうために対価を贈る必要がある。銀のリングとか。首輪になりきれない浅はかなさ)
最後だから答えようと思う。光留さんは知っていて貴方は知らなかった事をひとつ。
それくらいの重量どうってことない。男達よりもよっぽど束縛の重みと外した時の羽の軽やかさを識ってる。自分でかける束縛も含めてね。首輪のお加減はいかが?貴方と対等のこんな覚悟で女は荒れ狂う海に踏み入れる。頭の先まで飲まれる前に、貴方が理性を呼び覚ましに来てあげて。静かの前に、狂騒の前に、間に合うようにサイレンを鳴らして。誰かの安全装置になれば、自分の首輪に知らず知らず同じものを掛けてしまえる。誰かを消してしまわないようにね、そうすれば代わりを探す手間がしばらく省けるわ。覚えておくと良い、いつかのパートナーの為に。
彼の指がさいごと唇をなぞる。私の指は笑ってそれを彼の指、親指から触れて小指まで誘う。デコルテに落ちた掌の大きさと熱さ、圧される鎖骨上。喉の入り口が酸素をすぐ欲しがるのを無理に押さえ付けた。すうと少しずつ息を抜く。引き寄せられるように掌は私の心臓に近づく、皮一枚隔てて握り潰せるくらい傍に。諦めのきっかけを、ほんの些細な事で見つけてしまう彼が外してしまわないように、慎重に気配を読んで……こんな時だけ泣きそうになって、狡いひと。罰の身代わりでも私はそれでよかったのに。
悪夢をみないおまじないを一晩分だけあげます。後はひとりで寝付いてね
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -